HOTAPONG HOTABLOG

辿り着く先の知らない思考の途中経過と、その道中で出会った様々なもの。

My inspiration source and thinking about architecture, design, life, myself...........

2月 26

Voice,Letters,Sketch


「言葉」というものに最近の興味があって色々な文献を読んでみたのだけれど 
「言葉」は「文字」と「声」の2つに分類することができるということを知った。 


「文字」は視覚的な言葉で、「声」は聴覚的な言葉である。 
「文字」は物質(本やメモ)として残り、「声」は発した瞬間に儚く消える。 


「文字」はモノとして残り再度読み直して再考できるために 
物事(書いてある内容)を反復して深く考えたり世代を超えて伝達したりと「研究・探求」というものに適したツールであり、 
「声」は非物質(空気の振動)で刹那的な寿命の情報のため 
リアルタイム、体験的であり、その「声」を共有できる(話し合いをしている)複数人のグループの一体感を生むツールである。 



建築の設計をやっているとスケッチ(パース、ダイアグラムなど)をよく描く。 
それは、クライアントや敷地から要求される事柄と設計者のこだわり、作家性(作風)を統合した概念を、実際の建築の図面(形態)に落とし込む時のパイプ/翻訳(言葉から図式/形態へ)の役割をする。 


それは、頭の中の抽象的な概念(文字や声などの言葉)が具体的に視覚化される最初の段階の図形、と言えば良いのだろうか。 
(そこから法規や諸室の配置、寸法、素材、工法などいろいろ検討されていき、実際に立ち上がる建築物となる) 



英語の単語の1つである “see” は、「見える」と「分かる」という意味が同時に存在している。 
つまりこの単語には、「見えないことには分からないし、分からないことには見えない。」という考えがあるといえる。(『網膜に映ったことで「見える」』と『脳内にイメージが浮かぶ=「分かる」』の差異は “see” には無い)。 


だから、この文字、スケッチによる視覚化、俗にいう「見える化」は 
物事を「分かる」ということに有効な手段である。 


しかし、この「視覚化」には落とし穴がある。 
それは下記の心理学・行動経済学者 Daniel Kahneman(ダニエル・カーネマン)の言葉。 


—We’re blind to our blindness. 
We have very little idea of how little know. 
We’re not designed to know how little we know. 
[trying to judge the validity of our own judgments] is not worth doing. 
But when the stakes are high, 
my guess is asking for the advice of other people is better than criticizing yourself.— 

(日本語訳: 
我々は「盲目」ということに盲目である。 
我々はとても小さな知識の中のちっぽけな見解をもっている。 
我々は如何に自分たちが知っていることがちっぽけなものかを知ることができない。 
「我々独自の判断の妥当性を見定めようとすること」は決して悪いことではない。 
しかし、その判断を上回るような危険な事態が起こる時、 
私の推測では自問するよりも他の誰かに訪ねてみる方が得策だ。) 



人間は判断する対象をフレーミングをする。 
もしくは上記のように「視覚化」する。 
そうしないと物事を決められないからだ。 
(「言葉」というものはそういうときに用いるツールであることも前回書いた) 


そのフレーム(「視覚化」されたもの)の外にあるものに対して盲目になり 
その「盲目」に対しても盲目になる。 
(=「例外」が存在することを忘れてしまう、目に見えているモノが全てであると思い込んでしまう。) 


要は僕が以前書いた「Don’t go crazy」と似ていて、 
独りよがりな考えを上回る事態(=「想定外」)に遭遇する前に 
早期にフレームを大きくする「話し合い」に価値がある。 
(あと、この「盲目であることに盲目」の状態が “crazy” なのだろう。) 


ホントありきたりなことで目新しいことではないのだけどw 
「他者との会話・意見交換は重要だ。」ということだ。 



そう、だから 
話すこと、書くこと。そして(建築家にとって)描くこと。 
これら3つはとても大切なことなんだ。 


まあ僕は話下手だし 
なまけものの性格だからスケッチを描くのもサボリがちなんだけどw 
意識的に行動にしていかないとなぁ。 


と考えた2012年旧正月in上海です。 

(26,Jan,2012著)


2月 19

By myself



英語で「1人で~する」という表現の時に用いられる”by myself” 
たとえば、”I’m living by myself.” は「私は一人暮らしをしている」となる。 

“by”は、「~によって(~される)」という意味をもっているから、 
この”by myself”は「自分によって自分が~される」という意味合いに僕は受け取っている。 

この「する自分」と「される自分」が同時に、 
1人の人間が2人に分けられたかのように 
存在していると捉える視点が面白いと思った。 



僕は昔から「自分は2人いる」と思うことが間々ある。 
(ドッペルゲンガーとかそういう話ではなくて) 

ふとした時に幽霊離脱のように 
「自分を観察している自分」が現れて 
しばらくしたら消える。 

「当事者としての自分」と、「それを俯瞰して見ている自分」 
という感じだろうか 
その2人が現れたら消えるということが繰り返し起こる。 


また 
自己性格診断テストなどの結果で 
僕は「内向/外向」の項目が半々になって 
結果が2パターン出てくることがよくあるし、(過去に3回経験した) 
大勢で騒いでいるときと1人で黙々と何かに没頭しているときの 
ギャップが大きいから 
人から「二重人格みたいだ」とも言われることもある。 

自他ともに(認識の違いがあれ)「僕」と「また別の僕」がいると認識することが、たまにあるようだ。 





どちらが自分なのか知らないし 
どちらも自分だしどちらとも違うのかもしれないし 
別れているときと別れていない時はなにがちがうのか。 
よくわからない。 


そして、この「自分は2人いる」という話を 
いま書いている自分は別々に別れてるの? 
なんなの? 


という問題にぶつかった。 



それで気づいたこと。 
『そもそも始めから自分は1つで、 
知らず知らずに自分で自分自身を2人(もしくはそれ以上)に分けてしまっただけではないか。』 
ということ。 

何故そういうことが起きるのか。 


人間は言葉を用いて、世の中の事象を分けて(分別して)把握するようになった。 
だから言葉を知るほど(ボキャブラリーが増えるほど)、 
「あのときは~の自分、このときは~の自分」と 
言葉を自分自身に与え、自分自身を(知ってか知らずか)分け隔てていく。 

そして生きていくうちに、対になる言葉同士(対義語)を与えられた自分たちが出てくる。 
「理性的」と「本能的」、「正直な」と「嘘つきな」、「表」と「裏」、「天使」と「悪魔」、「本当」と「偽」、「好きな」と「嫌いな」などなど。 


でも、 
「頭のいい」人でも簡単な間違いをすることはあるし 
「明るい」人でも暗く落ち込むことはあるし 
「真面目な」人でもアホやって騒ぐことはあるし 
「気怠そうな」人でもなにかに真剣に取り組むことはあるし 
「静かな」人でもおしゃべりになることはあるし 
「自己チューな」人でも誰か他人のために献身的になることはあるし 
「ちゃらんぽらんな」人でもじっくり物事を考えることはある。 



だから 
「これが『本当』の自分」だとか 
「どちらが『自分』なのだろうか」とか 
「自分は~な人間なのに、周りは分かってくれない」とか 
「みんなホントの自分を理解してくれない」とかの問題/悩みは 
上記の「言葉による分け隔て」から発生したものであり、 
結局これらは「『言葉』を使用するが故のワナ」である。ということ。 


(おそらく上記の類いの問題には答えは出せない。仮にどちらかの「自分」を選び取ったとしたら、もう片方の「自分」を徹底的に排除しようとする苦労に見舞われる。まあ、その苦労を逆手に取って「有言実行」というストイックな心構えや「自己実現」へ向かうことが可能にもなるけれども。) 



もちろん、「言葉」は重要なコミュニケーションツールであり、自身の思考ツールであり、記憶・記録に欠くことはできない。 
物事に何か言葉を与えてしまえば、思考しやすくなって脳がラクになるし問題の解決に近づけることにもなると思う。 

ただ逆に、言葉を与えてしまったが故に、その言葉の意味されるもの(シニフィエ)や 
その言葉のキレイな(かっこいい)響きに囚われて 
流動的な〈世界〉から目を離して思考停止してしまうリスクもある。 



要は、「何事も取り扱い方が大切だ。」ってこと 

「言葉」は、流動的な事象や変化を切りとって停止させ保存しておく性質がある。 

これを把握したほうがいいと思った。 
それが「言葉の取り扱い方」。 




となると、 
この「言葉」を用いずに物事を把握できることは可能なのか。 

『言葉』を捨てる方法、『言葉』に支配されずコントロールする術はあるのだろうか。 

〈世界〉を「言葉」で切り分けずに、まるっとわかることはできないのか。 

「ありのままを受け入れる」「Let it be」というのは 
このような術がないと実現できないのではないだろうか。 

みたく、 
今度は「分かる」と「悟る」のそれぞれの方法について考えてみたくなる。 


自分でまたよくわからなくなってきて 
まだオチが見つかってないのだけどw 
とりあえず『「言葉」を使うこと』に対するここ最近の興味のメモ。 

(27.Dec.2011著)


2月 9

Globalism


「グローバリズム」は本当に地球を『平和』に、平均化、均質化したのだろうか。 


日本語には英語(他国言語)にない繊細な感性があると思うし
実際、そういった感性は人生を豊かにし得ると思うけど 
グローバリズム社会のシステムにおいて 
そういうことはまだ別の話だと思う。 



「グローバリズムの時代において英語は必須」という認識。 



これって母国語が英語の人間にかなり有利じゃないか? 


日本に生まれて日本語ネイティブの僕は 
時代の主流である「グローバル」の舞台に上がるためには 
英語が話せなければならない。 
(いや、もちろんこの「格差」に対してデモを起こそうとか 
disって自慰しようって意図はないし、それを知った上でこっちに来た訳だし。) 



僕の会社には 
アメリカからのインターン生がよく来る。 

実際、僕は上海で仕事するためには英語が欠かせないから 
日本にいた時でも今でも勉強して来てるのに 
元々英語が話せるからって簡単に(僕の英語の学習に費やした時間と労力を無くして) 
来ることができることに 

「この野郎…………………… I’m fine. How are you?」 

ってなるわけですよ。 



だから、「グローバリズムが世界を平等に、均質的にしている」とか思ってるのは 
英語圏の人間だけじゃないのかな、と思う訳です。 


上海でもアメリカンなハンバーガー食べられるし

(もちろん日本的な寿司も食べられるけどw) 
西洋的なしゃれおつなバーもあるし 
英語はどの国でも教育されているから、なんとか意思疎通はできなくもないので 
中国語(英語以外の言語)を学ぶ意識はさほどない(ローカルのお店以外なら大概通じるし)。 
英語圏の人間にとって(もちろん『海外にいる』という意識/緊張感はあるにしろ) 
生活はしやすいのではないのかと思う。 



だから 
英語を勉強して海外でも働けるようになるんだ!という自分と 
英語圏の人間との意識というかなんというかわからないけど 
なんだかそこまで来るハードルの数、高さに「格差」を感じる。 
(僕らの語学習得に要する労力と時間を、彼らは他のことに自由に使える訳だし) 



だから 
「簡単に英語しゃべりやがって(震える握りこぶし)……………Yes. Good. Let’s go for coffee!(爽やかスマイル)」 

となるわけです。 


もちろん、英語できないとなんかナメられるしバカにされるけど 
(しゃべれない自分に対してもイライラするし) 
それを嘆いて落ち込んでいる暇と体力あるなら 
勉強してさっさと修得しろって話。 



また、話変わって 
グローバリズムによる経済的格差も最近の問題になっているようですね。 


僕が勉強した限りでは、 
現在の日本が直面している「デフレ」の問題は貨幣的なものではない。 
だから今の世界的な不況は財政・金融政策は効かない。 
(日本円を発行すれば解決するという問題ではない。) 


問題の本質は、新興国との(製造業)の競争の激化であり、 
その新興国との価格争いによる 
先進国の製造業の賃金の低下、 
製造からサービス業への人材移動(転職)と 
これに加えてグローバリズムによる世界市場の統合の中での 
先進国の価格体系が新興国のそれに引き寄せられる(類似してくる)こと=「バラッサ・サミュエルソン効果」によるサービス業の実質賃金の低下。 


このしわ寄せは単なる「賃下げ(減給)」としてではなく 
「正社員から契約社員への代替」「新卒採用削減」として現れる。 
つまり、中高年ではなく若年層の雇用や賃金に影響が出てくる。(=「就職氷河期」) 


だから仮に為替介入しても一時的に「デフレ」は解消されるかもしれないが 
抜本的な解決にはならない。実は「雇用・労働制度」に問題があるとされている。 
(最近は、「最低賃金」に関する議論もあるようだし、それもまた「格差」の問題を引き起こす。) 



グローバリズムにより経済問題もまた複雑化してきている。 
(経済に関しては詳細をもっと勉強する必要があると思うけど、とりあえず記述しておきます。) 




グローバリズムによって 
世界の国々は確かに「つながった」。 
でもそれは「平和」や「安心」とはまた違う。 



あと、ネットの普及で 
どの国でも誰とでも連絡が取れるようになったけど 
地球上に生きる限り「時差」というものは無くせない。 


会社にいるアメリカ人は 
アメリカにいる友人とリアルタイムで連絡を取るのに 
時差15時間のため 
上海では深夜、アメリカでは朝 
という時間帯でしか連絡が取り合えない。 


だから(仕事でもプライベートでも) 
スケジュール管理は 
社会に属する限り必要なものだと思うけど 
その管理に「時差」というパラメータが入ってくることにより複雑化する。 


「ノマド」的なライフスタイルも話題になってるけど 
あちこち国を移動しまくってたら 
仕事の納期や会議と、自身の生活リズムとがぐちゃぐちゃになって大変なんじゃないかな、とか思う。 
体調管理も社会人には重要ですからねw 
(とはいえ、実際「ノマド」は僕の眼には魅力的に映っているのだけどw) 



要は、「グローバリズム」は僕らに「平等」や「平和」をもたらしたのではなくて 
ただ「格差との闘い方」を変えただけだ。ということ。 


僕の具体的な「闘い方」はナイショ。 

(29.Oct.2011著)


2月 6

Link


関係のない分野、自分の専門とは異なる分野を勉強することは 
一見、ムダなようで何も意味のないことのように思える。 


でも、養老猛さんと茂木健一郎さんの対談本『スルメを見てイカがわかるか』を 
最近読み返してみたら 
「関係の無さそうなことでも、結局それらの情報を処理する脳みそは1つであるから 
なんかしらの関係/影響があるはず」のようなことが書いてあって 
「確かにそうかもな」と思った訳です。 
(コレに関する研究は現在行われていないために真意は定かではないけども) 



建築家・原広司さん(僕の恩師の恩師。面識はないですw)も 
知識の幅が広く、哲学やら幾何学やらと「建築学」の枠とは違う学問にも精通していて 
それらを絡めながら自身の建築論を展開していくところなんかに憧れを持ちます。 



あと鳥などの動物の「群れ」がつくる「群造体・群動体」にも 
修士の時ぐらいから興味を持ち始めました。 
要は「それぞれの個体が自律していながらも、それぞれの間に不可視な関係/ルールが存在していて、それらつくり出す全体/群れの在り方」っていうのかなw 



IT/SNSで作られていく人脈や情報伝達、 
グローバル経済や村上春樹の『1Q84』の「リトルピープル」、 
建築分野でいうと「アルゴリズミック・アーキテクチャー/Algorithmic Architecture」とかで 
上記の「イメージ」が共有されているように感じる。 



なにかそういう「イメージ」に魅力を感じているし 
そういった自分の脳内にLinkが出来てくる状態、 
そのLinkが広がっていく感覚を求めて 
闇雲に本を読んでいるのかもしれないし 
人の話に耳を傾けているのかもしれない。 


そしていま、自分のなかに 
無数のLinkでつながってできる世界観に最大の興味があるように思う。 

んで、いつ/どんな世界観になるのかは、わかりません。笑 

(2.Oct.2011著)


2月 2

Input & Output



茂木健一郎さんの「忘れる」ということについての連続ツイートを読みました。 
以下、転載。(改行だけ僕が勝手にやってますが、内容はいじってないです。) 

———————————————————————— 
わう(1)忘れることで、人生はうまくいく。 
勉強することも、体験を蓄積することも、詰め込むことも大切だけれども、同時に大切なのは、忘れてしまうこと。 
実際、人生がうまく行かないことの大半は、忘れられないことの中に理由があるんじゃないかな。 

わう(2)若さとは、自分が何も持ってやしないということの自覚である。 
だから、ギラギラする。年を重ねるにつれて、いろいろ持ってしまう。溜まってしまう。 
だから、曇ってくる。自分が何を持っていようが、蓄積していようが、そんなことは忘れてしまいな。 
そうすれば太陽になる。 

わう(3)忘れられないと、昨日までにとらわれる。子どもは忘れるのがうまい。 
泣いたからすがもうわらった。忘れることは、最高のアンチエイジングである。 
どんなに苦労しても、いろいろあっても、はて、そんなことありましたかねと言えるならば、その人はいつまでも若い。 

わう(4)日本人が英語をうまく喋れないのは、日本語を忘れることができないからだ。 
だから英文和訳をする。和文英訳をする。 
母語である日本語は確かに大切なことばだけれども、自分が日本語を喋れるということを忘れちまいな。そうすれば、何も喋れないことのギラギラが、力になる。 

わう(5)そもそも、私たちの意識は、身について自動化したことは忘れるとベルクソンも言っている。忘れるということは、つまりは自分のものになったということ。 
そこには注意を向けなくていい。 
まだ自分のものになっていないものにこそ、貴重な意識の資源を向けるべきである。 

わう(6)緊張するのは、才能の証しである。 
自分が何をしなければいけないかを、自覚している。 
忘れられないから、緊張する。 
うまくやろう、もしダメだったらどうしよう、そんな配慮は、ぜんぶ忘れてしまえ。そうすれば、うまくいく。フローの黄金に持ち込むことができる。 

わう(7)悩みのほとんどは、忘れることで解決する。歩くことは効果的である。 
酒井雄哉さん(『幸せはすべて脳の中にある (朝日新書)』)も、「歩行禅」とおっしゃっている。 
歩くことであたまをからっぽにすれば、それで若返る。 
前向きに生きるエネルギーが生まれてくる。 

わう(8)『アンの青春』(Anne of Avonlea)だったかな。「たくさんのことを忘れた猫」という言葉が出てきた。 
たくさんのことを覚えている人もいいけれども、たくさんのことを忘れた人もいい。 
きれいさっぱり忘れたことがいいこともある。たとえば、学歴とかね。 

わう(9)アウェーにいったら、ホームのことをいったん忘れてしまう。 
それが、旅することの喜びだったはずなのに。生きる楽しみだったのに。覚えなけりゃいいんだよ。 
とらわれないこと。重力の魔に逆らうということは、つまり、忘れる練習をするということ。 

————————————————————————— 


僕は、 
「忘れる」という行為は 
「覚える」という行為が前提にあって成り立つものだと思う。 



クリストファー・ノーラン監督の映画「メメント」(2000年制作)は 
強盗に妻を殺されたショックで 
「新しい記憶が10分しか残らない」という記憶障害になった主人公が 
その犯人を追う復讐劇。 
この主人公は、その新しい記憶が消える前にポラロイドカメラやメモ、タトゥーを掘るなどして 
なんとか記憶を留めようとしながら犯人を追い続ける。 
(ストーリーの進行も、通常の時間軸と逆行するようになっていて、 
なかなか挑戦的で僕は結構好きな映画です) 


「忘れる」ということがあるから 
「思い出す」ということが成立して 
そのため、記念写真や日記、メモに存在価値が出てくる。 


上海に来てから、意識的に日記を書こうと思っていて 
それは「忘れない」ために記録を残そうという意図があった。 

でも実際は、書いた後にその内容をけっこう「忘れる」笑 
「何書いたっけかなぁ…」みたいな笑 
(それでまた読み返したりするんだけどw) 


だからこういう日記みたいに言葉にするのは(他の表現方法でもいいのだと思うけど) 
アタマの外に出す=Output=「忘れる」のに実は有効なように思う。 


1. 「Sence」で情報を捕らえる=Input 
2. それを“「忘れる」=Output”のために“「覚える」=アタマの中に留める” 
3. Outputする=アタマの外に出す 
4. そのOutputを後々眺めて「忘れる」が出来ているか確認する=「思い出す」 
(思い出したくなければ、それを捨ててしまえば良い訳でw) 

って流れがあるのかなぁと思った。 



ということでこの『「忘れる」ということ』を 
「忘れる」ための日記でした。 


(26.Jul.2011著)


1月 31

Sence

目をつぶって鼻をつまんで食べ物を食べると 
何を食べてるかよくわからない。 

前にフジテレビの「めちゃイケ」で 
そんなコーナーがあったと思う。 
2人組で何を食べたか答えを合わせるやつ。(今もやってるのかな?) 

その「めちゃイケ」のコーナーでどのように正解を探るかというと 
「舌触り」や噛んだときの「堅さ」、 
「刺激(「辛さ」は粘膜への刺激であって、辛さを感じる「味覚」は無い)」、 
噛んだ時の「音」を頼りにする。 


五感のうちに「味覚」という味を感じ取る感覚器は 
思っている以上に鈍いことがわかるし、 
こうやって食べると「美味しい」とは感じないはず。 

つまり「味わう」という行為は 
味覚だけでなく 
それ以外の五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚)も合わせて初めて成立する。 




また先日、LAにいるボスから、 
紙ナプキンに描かれたプロジェクトのアイデアスケッチの写真が 
メールと共に送られてきた。 
一瞬のひらめきが瞬時に国を超えて共有されるスピード感に 
驚嘆と同時にかっこ良さを感じた。 


ITの進化で、情報の行き交い、受信と発信はとてつもなく速くなった。 
「情弱」という「情報格差」を表す言葉も一般的になってきた。 
まだまだITには可能性があるし、これからも僕らの生活に対して大きな影響力を持ってくると思う。 


でもその反面、『「情弱」にならなければ安心』といった「知ったかぶり」に 
自覚無く陥る可能性も出てきたと思う。 
そもそも「情報」という言葉は「『五感』が感知した事象」だと思うのだけど、 
(今現在は)ITによって視覚と聴覚だけ切りとられている様に思う。 
(まあ、人間の五感のうちその2つにプライオリティがあるのはわかるけど) 




「多角的に物事を見る」「無限に想像を広げる」とかいう言葉、 
「リアル」を集約して「イメージ」を構成する「Inspiration」は 
こういった感覚から得られた「情報」がないと 
実現できない様に思う。 


(「情弱」は端においといて)「情強」のなかで他者と差別化を図るには 
「経験」すること、その目で、鼻で、耳で、舌で、肌で感じることが必要になると信じたい。 
(単純に「ITを捨てろ」なんて言う気は毛頭ない。) 



僕は上海に来て初めて、 
街に「匂い」があることを知った。 

「生きよう」「生活を豊かにしよう」という人のガメツさ、必死さを肌で感じた。 

良くも悪くも素直な言動をしている人々を目にした。 

ラテン系の人間が醸し出す、女性を口説くときの空気感を横目で感じた。 

逃げ場も無く闘う「孤独感」を知った。だからこそ気にかけてくれる人の「温かさ」を知った。 

日本ではどうでも良かったことが、実は大切なことだと知ったし、 
そういう「大切かどうか」なんてことは、自分のいる環境によってめまぐるしく変わるというある種の「儚さ」のようなものも身をもって感じた。 

上記のようなことを感じとる感覚を自分が持っていることも知った。 

(「五感」から「心情」的なものまでちょっと話が広がってしまいましたがw) 
これらは実際に「経験」しないと得られない「情報」だったと思う。 



以下は、修論のときのプロローグとして書いたもの。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

『都市的状況』 

遠くに聞こえる鳥の声 
忙しく奔る自動車の音 
地面に光と影のモザイクを描く太陽 
季節を知らせる草花 
寡黙に自己アピールしている看板 
すれ違っていく見知らぬ人 
思わず見とれる美人 
どこからか流れている聞き覚えのある音楽 
セットした髪型を崩していく風 
大きな声でビラを配り勧誘している客呼びの店員 
テラスで日向ぼっこしているカフェの椅子 
いつのまにか浮かんでいる丸い月 
暗闇と一緒にやって来る静けさ 

こういった日常の小さな出来事の集積を経験する場を 
僕は「都市的状況」と言いたい。 

そしてこれら小さな出来事のきっかけの人やモノは 
「都市的状況」をつくるために存在している訳ではない。 

それぞれがそれぞれに存在しているからこそ 
「都市的状況」はある。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
(今読むと、自分の関心事は押さえているけど,「浅いなぁ」って思うね笑) 



視覚と聴覚が瞬時に共有されるこの時代において 
それ以外の感覚が鈍らない様に気をつけたいと思う。 
街を歩くだけでも、たくさんの「情報」は得られるのだから。 



この「情報」—「リアル(身体感覚で感じ取るもの)」—が『Loop』を廻すのに欠かせない。 
「情報」のために、その「感覚」をもって「行動」して「経験」することが重要なんだ。 


ということで 
勇気をもって未開の地を 
この身体で行くことを心がけたいと思います。

(22.Jul.2011.著)


1月 28

Loop


大学院1年時に書いたレポートの一部がずっとどこかに引っかかっていて、修士論文においてもそれをテーマにしていたけども、未だ消化できずに今もまだ僕の頭の中に残っている。 

――――――――――――――――――――――――――――

地球が球体であることを知っていても我々の普段の日常生活において「地球は球体である」と感じないし、むしろ球体だろうが平板だろうがなんでもいいように感じる。 

だから地球の形態は球体であるという「イメージ(想像上のものに近い実体はないが存在するという概念的なもの)」と、その上で生活している我々が実際に感じ取る「リアル(身体感覚で感じ取るもの)」には大きな差異がある。 

そして「リアル」が集合して「イメージ」を構成するが、全体の「イメージ」は「リアル」を規制・制限する。

―――――――――――――――――――――――――――― 
(上記のことを主軸に「都市と建築」について書いていたのだけど、その部分は今回省略。) 


実際に昔は「地球は平板だ」とか「地球を中心にしてその周りを太陽や星が回っている」とか人々は思っていたが、ガリレオ・ガリレイが自分の活動で感じ取ったものを集合させてみると、それまでの「イメージ」とは異なる新しい「イメージ」を作りだせた。 


また、プロダクトデザイナーの深沢直人さんの講演を聴きに行った時、「デザインという行為」を 
「ガラスの瓶をピストルで撃って粉々になる映像があるとして、それを逆再生したようなもの」 
と表現していた。 


つまり、散らばったガラスを集めて瓶を構成する。 
もしガラス片のなかに異物が混ざっていれば違う瓶ができあがる。 
逆に、創りたい瓶があるとしたら、その構想からガラス片を取捨選択して構成しなければならない。 



ガラス片―「リアル」ーが先か、瓶の構想―「イメージ」―が先か。 
それはニワトリとタマゴのようなもので、どちらが先かなんてわからないしどうでもいいことで、 
それよりも、ニワトリとタマゴが順繰りになることで「生命の連鎖」が生まれているように 
「リアル」と「イメージ」(ガラス片と瓶)のループによって「デザイン」(ものを創る行為)が可能になると思うし、こういうデザインのやり方を僕は理想としている。(ついついどちらかに偏ったやり方になってしまうのだけれど笑) 



このやり方は「柔軟」であるけれど、軸というか方向性を見失いやすい。 
しかも修正の繰り返しでやたら時間がかかる。下手すると終わりが無い。 
でも逆に、終わりがないということは永遠ということでもあって 
ストーリーはずっと続いて行く。 
(仕事は締め切りがあって強制的に終了するけれど、その過程のループを自分のなかで続けることは可能なはずだ。) 


そしてこのループの原動力というのは「違和感(疑問・問い)」と「好奇心」だ。 



大学の非常勤講師の建築家・福島加津也さんに 
僕のポートフォリオについて相談させて頂いた時にこうおっしゃっていた。 

まず「個性が弱い」と言われ笑、続けて 
(「少年探偵団」と「怪人20面相」を例にして) 
「彼らは最後の最後で怪人20面相を捕まえ損ねる。もちろん彼らは真剣に捕まえようとしているのだけれど。でも捕まえ損ねることでストーリーは続くんだよね。」 


ここでいう「捕まえ損ねる」は「違和感」が消えない、もしくはまた他の「違和感」が現れること。 
そしてもちろん他の誰でもない自分自身の「好奇心」で真剣にその「違和感」を解消しようとしてる。 


だから「違和感」のない完璧なものは「終焉」を意味していると思うし 
その続くストーリーが「個性」になって行くのだと思う。 
(しかもその「個性」が「文脈」上に位置づけられて流れを変える「意味」をもつと最高に「カッコいい」と思う。笑) 


んでまた「イメージ」と「リアル」の話に戻ると 
「イメージ」が強すぎると「リアル」が打ち消される(=「違和感」がなくなる。) 
「リアル」が強すぎると「イメージ」が創られない。 


いずれもループが生じなくなる。つまり終焉だ。 



「ルビンの壺」という絵を見たことがある人は多いかと思いますが 
この絵は「トリックアート」と呼ばれていて 
錯視を楽しむ面白いものと思います。 
しかし僕は今回日記のことを考えていたら 
少し違ったものに見えてきました。 


タイトルに「壺」とあるのでそう思って見ると 
周りに向かい合う2人の人間の顔が見えます。 
そして「顔」だと思って見ると 
今度は真ん中に壺が見えてきます。 
これの繰り返し。 
だからずっと飽きのこない新鮮な絵に感じます。 


フォト


試しに「壺」と「顔」の比率を変えてみると(自作しましたw) 
ループは消える。「トリックアート」という「個性」がなくなる。 


フォト


フォト
 

壺と顔のどちらかしか見えない。 

面白い発見だったなと自画自賛してました笑 

日々の忙しさに流されてしまいがちだけど 
こういう終わらない冒険をしていきたいと思う今日この頃です。 
(この日記盛りだくさんですいません笑)

(20.Jun.2011.著)


Don’t go crazy

「1人で悩んでないで、周りに相談すればいい」 
この類いの言葉は、よく耳にする。 


でも、僕は今まで人に相談する事をなるだけ避けてきたように思う。 
「こんな事聞くのは、なんだか恥ずかしい」 
「これは自分でしか解決できない」 
「相談したところでどうにもならない」 
「これを乗り越えたら、それによる経験値は自分だけで独り占めできる」 
そんなことを避ける理由にしてきた。 


今の仕事は、当然1人で行うものではなくてチームで行う。 
そこで会社の上司に 
「1人でぐだぐだ考えてるのは時間のムダだから、チームの誰かに相談しろ」 
「思い悩むな」 

そこで、「あぁ、たしかにそうだな」ってなんだか納得した。 



「時間のムダ」 

「時間」に比べれば 
上記の理由は、「いかに自分が矮小なことに捕われていたか」が分かる。 





チームワークや共同作業の意味は「相談」ということにあるんだ。 
「独りでは辿り着けない場所」に辿り着く手段なんだ。 
「独りでも辿り着ける場所」でも短時間で辿り着けるんだ。 


そういうことか、と変に納得しました。 
「1人でどこまでやるか」って案配が難しいところなんだけども笑 



んで、短時間で辿り着いたらどうするか、って話。 




そりゃ「遊ぶ」に決まってます。 

(23.May.2011.著)


1月 26

Context



この前の「カッコいい」デザインについての日記の続きです。 


現在、世界的に有名な建築家の1人として、ザハ・ハディド(Zaha Hadid)という方がいます。(ザハの建築は、曲線・曲面を多用した有機的形態をした作風で、ググれば簡単に見ることができるはずです。) 

そのザハの事務所のブレインとされるパトリック・シューマッハ(Patrik Schumacher)という人の講演の記事を先日読みました。 
これ→(http://www.architectsjournal.co.uk/the-critics/patrik-schumacher-on-parametricism-let-the-style-wars-begin/5217211.article) 



講演の内容は「パラメトリシズム(parametricism)」という新しい建築様式についての話で、 
建築史において、ピラミッドなどの古代遺跡からゴシックやバロックなどヨーロッパにある中世の宮殿のような建築物、モダニズム、いま街に溢れているような建築物へと、その時代を象徴するような建築様式は長い歴史を経て変化してきました。 
そして彼は、今世紀の建築様式として「パラメトリシズム」を掲げています。 


コンピュータの発達が形態デザインに影響を与えてきていることは、前の日記にも書きました。 
このコンピュータを駆使しないとザハのような作風の建築は相当難しいものだと思います。 
ザハの奔放な感性を、 
パトリックが「歴史」という見えない流れの中に 
「パラメトリシズム」として位置付けをすることで 
「意味」を見いだしている点に興味を持ちました。 
(もちろん、ザハ建築は「パラメトリシズム」の一例でしかないとは思いますけど。) 


言葉の数だけその「意味」があるように 
(建築家は形態を扱う職業であるから) 
建築形態の数だけ「意味」があると思う。 
その逆、「意味」の数だけ建築形態がある。とも言える。 


そして「意味」は「文脈」によって見いだされる。 
ザハの建築は、建築様式の歴史の流れー「文脈」—の最後に置くことで「意味」を見いだされている。 



アーティストの村上隆も著書『芸術家企業論』で 
アート界で成功するためには、アート史の「文脈」における自身の作品の位置づけができなければならない。と述べ、 
また同氏は『芸術闘争論』において 
「自由」な発想で、「自由」な感性で作品をつくれ。という 
「何にも囚われないこと」が一番素晴らしいことであると、 
「新しい」ものをつくることを期待される次世代のアーティストを教育する「『自由』神話」を指摘しています。 


「自由」につくっただけでは「意味」がなく、「文脈」を意識しなければならない。 
(感性を育てるにはいいかもしれないけど、職業としての「アーティスト」を育てるには不十分ということ。) 


だから本当に「新しい」ものとは、 
「文脈」の流れ/方向性を変えるようなものなんだと思う。 
(前の日記の「新しい」=「自分の世界/視野の外から内へ入ってきたもの」とは、またすこしスケールが大きくなった笑) 

さらにその流れを変えるツボ/ハンドルー「問い」—を見つける力が「創造力/クリエイティブ」なんだと思う。 



ボクは昔から「歴史」の授業が嫌いで、 
試験のためだけに勉強する程度で全く興味がなかった。 
「自由で柔軟な発想で新しい時代を築け」と先生たちは言うくせに、 
遠い昔の話を聞かされ暗記させられる理由がわからなかった。 

でもようやく理解した。 
「温故知新」とは多分このことだ。 


「文脈」を知り、その流れを変えること。 

なるほどね。 


だから 
「文脈」を変える「意味」を持ち、 
「自由」に持てる感性を駆使して創られたものを 
ボクは本当に「カッコいい」と感じるのだと思う。 


(11.Jun.2011)



1月 24

Cool Design

「カッコいい」デザインをしたいと思う。 

「カワイイ」でも「キレイ」でもなくて「カッコいい」。 

学部生時代から「モノの『形態』に興味があるんだね。」と言われ続けてきた。 

そして僕は今、「カッコいい」『形態』を創りたいと思っている。 

 

 

学校の課題でよくやっていたパキパキした多面体のデザインは今の会社に限らず、他のデザイナーの作品でもよく見かける。これは、(学生時代には気づかなかったが)CG中心のデザインの進め方において、効率良く思ったより短時間でできる(「手抜き」という意味ではなく)デザインで、かつ「カッコいい」。

 

だから建築の市場的に(中国のような経済成長国においては特に)、「新しい」デザインを「短期間」で要求されるから、どうしてもこういう「形態』に頼ることになるのだと思う。

パキパキ系の他に、小さなキューブを集めたような「ピクセル」系、自由曲面を多用した「うねうね、もこもこ」系とか「幾何学模様」のファサードとかある程度カテゴライズできると思う。これらも同様にCGが活用されはじめてからよく見かけるようになった。

 

そうなってくるとある種の「流行」のようになって、なんだか昔に感じていた「カッコいい」が淀んだように見える。(でも依然として「カッコいい」デザインなのだけれど笑)

 

この「流行になる直前の状態」の「カッコいい」デザインは「新しい」デザインに似ていると思うかもしれない。

では、「カッコいい」と「新しい」はどう違うのだろう。

「新しい」としても「カッコいい」と言えないものはあるし、「カッコいい」のに「新しい」ではないものもある。

 

 

「新しい」に関しては、ファッションブランドのメゾン・マルタン・マルジェラに興味深いエピソードがある。(ちょっとうろ覚えで間違いがあるかもしれないけど、要点だけ)

 

 

デザイナーであるマルジェラは、あるコレクションで軍服ジャケットを加工したものを発表し、それが批評家/マスコミに大絶賛された。

「新しい。」「斬新なデザインだ。」と。

 

しかし、それはマルジェラがチベットを旅していた時に、そこの民族が着ていた軍服ジャケットを気に入ってもらってきたものだった。

つまり、マルジェラのその絶賛されたジャケットは、マルジェラは一切手を加えていない、単に着古されただけの「ただもらってきたもの」だった。

 

それを知った批評家/マスコミは当然手のひらを返すようにマルジェラを批判するようになる。

「絶賛したのに、本人が何もデザインしてないものを発表するとは何事だ。」と。

それに対するマルジェラの反論。

 

「ただ君たちがそのジャケットの存在を知らなかっただけだ。」

 

 

 

僕はこのエピソードから、「新しい」とは「自分の世界/視野の外から内へ入ってきたもの」のことを指すのだと思った。(他にも「じゃあ『デザインする』ってなんだろう?」とか「『クリエイティブ』とは何か?」とか思ったけど、今回は端に置いておく)

 

「知らなかったことを知った」「見たことが無いものを見た」

こういったとき人は「新しい。」と言うと思う。

 

「新しい」は「外にあったものが内へ入ってきた瞬間」に思う言葉だとすると、「カッコいい」は何か。

 

上記の「カッコいい」デザインは、コンピュータの発達により、複雑な構造力学計算が短時間で可能になったおかげで支えられている背景がある。(最近は環境系の「エアコンの空気を効率的に部屋へ広げる配置/建築「形態」や、太陽熱を内部空間に伝えにくくする建築「形態」の算出」なども広まりつつある。)

 

何かフワフワしたような構想/妄想がこういった「時代の流れ」や「その場の空気の流れ」のようなものが後押しした結果に結晶化されたものを、僕は「カッコいい」と思うんだと思う。

永い時間の「流れ」を飲み込んでいるアンティークのようなもの(当然「新しい」ではない)は「カッコいい」し、経年変化をデザインに取り込んだものも「カッコいい」と感じる。

 

個人によって大きく異なるためフワフワとしている「自分の世界/視野」の外から内へ入り込む「新しい」ではなくて、

何か眼には見えていないフワフワとした大きな「流れ」を「形態」にした「カッコいい」を僕は創りたいんだと思う。

「流行のもの」を創りたいんじゃなくて、もっと高い視点でみた「「流行」をカタチにしたもの」を創りたい。要は「批評性」を持ちたいってことか。

 

 

と、ここまで長々書いてきて

まだ自分のなかでスッキリとしていない部分があります。(どの部分なのかもわかってないんだど笑)

アウトプットする時期が早かったかな。

頭のなかも「カッコいい」ものにしたいね笑

 

まあ、いまこんな事考えています。

 

 


(23.May.2011)


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