Voice,Letters,Sketch
「言葉」というものに最近の興味があって色々な文献を読んでみたのだけれど
「言葉」は「文字」と「声」の2つに分類することができるということを知った。
「文字」は視覚的な言葉で、「声」は聴覚的な言葉である。
「文字」は物質(本やメモ)として残り、「声」は発した瞬間に儚く消える。
「文字」はモノとして残り再度読み直して再考できるために
物事(書いてある内容)を反復して深く考えたり世代を超えて伝達したりと「研究・探求」というものに適したツールであり、
「声」は非物質(空気の振動)で刹那的な寿命の情報のため
リアルタイム、体験的であり、その「声」を共有できる(話し合いをしている)複数人のグループの一体感を生むツールである。
建築の設計をやっているとスケッチ(パース、ダイアグラムなど)をよく描く。
それは、クライアントや敷地から要求される事柄と設計者のこだわり、作家性(作風)を統合した概念を、実際の建築の図面(形態)に落とし込む時のパイプ/翻訳(言葉から図式/形態へ)の役割をする。
それは、頭の中の抽象的な概念(文字や声などの言葉)が具体的に視覚化される最初の段階の図形、と言えば良いのだろうか。
(そこから法規や諸室の配置、寸法、素材、工法などいろいろ検討されていき、実際に立ち上がる建築物となる)
英語の単語の1つである “see” は、「見える」と「分かる」という意味が同時に存在している。
つまりこの単語には、「見えないことには分からないし、分からないことには見えない。」という考えがあるといえる。(『網膜に映ったことで「見える」』と『脳内にイメージが浮かぶ=「分かる」』の差異は “see” には無い)。
だから、この文字、スケッチによる視覚化、俗にいう「見える化」は
物事を「分かる」ということに有効な手段である。
しかし、この「視覚化」には落とし穴がある。
それは下記の心理学・行動経済学者 Daniel Kahneman(ダニエル・カーネマン)の言葉。
—We’re blind to our blindness.
We have very little idea of how little know.
We’re not designed to know how little we know.
[trying to judge the validity of our own judgments] is not worth doing.
But when the stakes are high,
my guess is asking for the advice of other people is better than criticizing yourself.—
(日本語訳:
我々は「盲目」ということに盲目である。
我々はとても小さな知識の中のちっぽけな見解をもっている。
我々は如何に自分たちが知っていることがちっぽけなものかを知ることができない。
「我々独自の判断の妥当性を見定めようとすること」は決して悪いことではない。
しかし、その判断を上回るような危険な事態が起こる時、
私の推測では自問するよりも他の誰かに訪ねてみる方が得策だ。)
人間は判断する対象をフレーミングをする。
もしくは上記のように「視覚化」する。
そうしないと物事を決められないからだ。
(「言葉」というものはそういうときに用いるツールであることも前回書いた)
そのフレーム(「視覚化」されたもの)の外にあるものに対して盲目になり
その「盲目」に対しても盲目になる。
(=「例外」が存在することを忘れてしまう、目に見えているモノが全てであると思い込んでしまう。)
要は僕が以前書いた「Don’t go crazy」と似ていて、
独りよがりな考えを上回る事態(=「想定外」)に遭遇する前に
早期にフレームを大きくする「話し合い」に価値がある。
(あと、この「盲目であることに盲目」の状態が “crazy” なのだろう。)
ホントありきたりなことで目新しいことではないのだけどw
「他者との会話・意見交換は重要だ。」ということだ。
そう、だから
話すこと、書くこと。そして(建築家にとって)描くこと。
これら3つはとても大切なことなんだ。
まあ僕は話下手だし
なまけものの性格だからスケッチを描くのもサボリがちなんだけどw
意識的に行動にしていかないとなぁ。
と考えた2012年旧正月in上海です。
(26,Jan,2012著)


