HOTAPONG HOTABLOG

辿り着く先の知らない思考の途中経過と、その道中で出会った様々なもの。

My inspiration source and thinking about architecture, design, life, myself...........

Create & Critic

創作する自分と批評する自分。
創作力と批評力。

最近の悩みというかモヤモヤしてたことがあった。
その理由がなんとなくわかったような気がする。
そのきっかけは松岡宏行さんという作家さんのツイート。

(以下引用)

—ダメな人間というか、誰しもダメな時はあるものだが、自分のことばかり考えて、自分はダメだと自分を責めている。人間、調子のいいときは、仕事や対象のことを考えるものだ。自分のことを考えるのをやめて、考えをやるべき対象「ものごと」に集中することが、ウツを抜け出す道だと思う。

小説家になりたい人が、なぜ小説を書かないのかと言えば、もうひとつ「処女作で大傑作を書きたい」気持ちがあるからだ。ところが今は大傑作を書く力がない。それは、批評眼だけが育っていて、創作力が育ってないから、自分が実際に書く作品が自分の評価に耐えられない。これが悔しい。

「評価眼だけが育って、創作力がない」ことは誰にとっても普遍的な悩みで、何か始めると、評価する自分が実行する自分を批判していじめてしまう。批評能力の高い人は、たいがい実行力もなくまして創作能力はない。自分が自分を批判してしまって、最初の段階でつぶれてしまう。

批評能力、鑑賞眼が先に育ちすぎてしまうと、忘我の境地になること、夢中になって集中することを妨げる。批判能力が「つくる自分」「行動する自分」をつぶす。

しかし、なぜ対象のことを考えず、自分のことばかり考えてしまうのか。仕事が途切れているからではないか。ヒマなときは集中すべきものがなくなり、つい自分のことを考える。仕事に忙しいときこそ次の仕事はこうしようなどと、アイディアがでてくる。—
 
松岡宏行 _@higetch(Twitterから引用)


デザインする能力、モノを創作する能力は
一朝一夕には育たない。
そしてデザイン系のメディアは世の中に溢れているから
自然と目は肥えていく。批評能力、鑑賞眼が先に育ってしまう。

だから何かデザインを始めると、
その創作したモノ/「創作する自分」を「批評する自分」が批判しいじめてしまう。
デザインする始めの段階で「創作する自分」が冷めてしまい、集中することを妨げる。

最近なんだか、自分自身が創作行為に没頭、没入、無我夢中になることがない。
ということに気がついてなんかモヤモヤした気持ちになっていたのだが、
要は余裕が持てているのが原因ということだ。
と書くと聞こえはいいが笑
言い換えれば、サボってヒマしてるということだ。


だから、「批評する自分」が出てこないように
日々のスピードを高めることが大事なのかも。

とはいえ、もちろん「批評する自分」も大事で、
「創作する自分」と「批評する自分」の意見交換/やり取りで創作物がグレードアップしていくのだから、
この2つの「自分」を飼いならすこと、相互に監視しあうことがクリエイティブの秘訣なのかもしれない。


「自分の好きなことをすることと、自分の好き勝手にすることは違う。」


学生時代に建築家の先生にそう言われたことあったなぁ。。。(遠い目)

(2013.9.22.)

Third year


先日、上海に来て丸2年が経ち、3年目を迎えました。

そこで3年目の抱負。

目の前の仕事を、とりあえずある水準まで持っていけ、と。

「ある水準」っていうのは、「お金をもらうに値する」ということ。

会社で働く=利益を上げる

以前に「カッコいいデザインをしたい」って文章に書いていたけど

「(学校で習ういわゆる)作家」として建築をする事と

「仕事」として建築をする事は違うもので

(そもそも『作家としての建築』というものからこの世界から入ったからしょうがないだろ、という言い訳。)

そういう「意識」が、

「会社で働く=利益を上げる」という意識を見えなくしてたのかな。と今は思う。

とにかくそういう認識の違いを新年に先輩からの忠告で思い知らされた。

(仕事に関することも追々記述したいと思っている。)


 

またこの新年には、祖父が他界したので

急遽日本に帰国して葬儀に行った。


葬儀は祖父らしい穏やかな雰囲気のまま終えて

その時に葬儀館のスタッフの方に

「とても優しい和やかないいお葬式でしたね」と声をかけて頂けた。


葬儀に参列した経験があまりないのでよくわからなかったのだが

世の中には、金銭トラブルなんかで家族仲が悪かったりして

殺伐とした嫌な空気の中で行われる葬儀もあるようだ。


そう考えると祖父が生前に大きな心で優しくつくりあげた家族環境が

葬儀をとてもいいものに仕上げたのではないかとも思う。

これら、心に響いたことが

この2013年はじめ、上海2年目を終え3年目をむかえる時期にあった。


 

仕事のクオリティを上げて収入をあげるには勉強が欠かせなくて、

例えば、今の僕の環境だとやはり語学が重要になる。

その語学をあげるには語学学校行くなり留学するなり費用をかけて学ぶ必要がある。

(もちろん独学でもいいのだが、それで外国語を覚えるまでは相当大変だ。よほど気持ちが強くなければいけない。また実務設計についても当然学ばなければならないが、それは仕事を通して直接学んでいくとして)

仕事に還元できることを勉強する費用を持つには給料が上げるようにしなければいけないし

給料をあげるためには勉強をしなければならない。

さらに、気持ちをリフレッシュしたり

新しいインスピレーションを得たり

新しい人脈を広げたり

(今は独り身だけど)祖父のように家族と過ごしたりするプライベートも重要になる。

そのプライベートを充実させるにはお金と時間が必要で、

これらを獲得するには勉強して高めの給料で早く仕事を終わらせなければいけない。

そう、仕事と勉強とプライベートのループだ

以前、テレビで作家の辻仁成の密着取材番組をみた。

彼は家族とフランスに移り住み

街や人々からインスピレーションや知識を得て

作家として本を書いたり自身のロックバンドでライブをやっていたり

自身のメッセージを発信して生活している。

ツイッターをみても子供との生活の一コマをツイートしていて

仕事、勉強、プライベートの循環がスムーズに回ってる。

(3つにカテゴライズしたが、そんなにキッチリ分け切れるものではないのだろうけど)

 


仕事、勉強、プライベートの循環がうまく回ってる人は、

その人独特の世界観を持っていて、とても魅力に溢れているように僕は感じる。

そういうような人になれるように、近づけるようにしたい。

 


去年27歳になったときの抱負にすこし手を加えたこの文を

上海3年目の抱負としたいと思います。


(20.Apr.2013著)

27th

もうだいぶ前の話になってしまっていますが

9月に27歳の誕生日を迎えました。

お祝いしてくださいました皆様ありがとうございました。

ちょうどその時に日本に帰国していたので

旧友たちと顔を会わせながら酒を飲めたのはいい想い出になりました。



日本の滞在期間は飲みっぱなしで

上海に戻ってきてもまた飲み会とwww

自分を迎えてくれるところが国境・海をこえて2つある、という

いまの「環境」は確かに自分の人生を豊かにしていると感じています。




今の生活は裕福とは言えないけども

充実している「環境」に身を置くことができるのは大切なことなんだなと。

「人生を豊かにするのはワーク・ライフのバランス」と言われることもあるけれど

僕はいま「建築」を仕事としていて、その「建築」とは「人の生活に関わるもの」であるし

自身の生活のなかでも数多くの「建築」に関わる。

だから、建築の仕事(ワーク)と僕自身の生活(ライフ)はつながっていて

僕のワークの延長に僕のライフがあるし、僕のライフの延長に僕のワークがある。

(この2つが僕にとって全く同じもの、とまでは言わないけれども。)



そしてこのバランスを取る為に

仲間みんなと一緒にワイワイ騒ぐことと、

1人の時間・空間をしっかり保って勉強や休息することの2つは欠かせなくて、

これは実は学生時代から年齢・住む都市が変わっても続いていることで、

こういう変わらない「環境」に身を置き続けることが

自分自身、「三澤穂高」という「人間」を変えていくのではないかと思う。

(思う、というか淡い期待をしているw)



そういう期待に応えてくれる変化が垣間みれる27歳の1年になったらいいな、と思います。

aim, task, loop

二ヶ月以上日記書いてなかったので

近況報告も兼ねてつらつらと。

 

4月に上海2年目に突入して

5月のGWに久々の帰国。

その帰国ですっかり気が抜けたのか

5月病に似た虚脱感で

向上心をどこかに置いてきたかのような生活を

送ってしまっていた気がしてちょっと反省。

 

そんな毎日の仕事に追われるだけの何となく過ごしてしまう日々から抜け出すには

『目標』が必要になってくる。

そして大事なのはその抽象的な『目標』から

具体的な『タスク』を設定する事だと思う。

要は『目標』に辿り着く為の「行動、日課、課題」を決める事。

 

『目標』が決まれば『タスク』も自ずと導きだされる。

また、もし習慣化している『タスク』があれば辿り着けるであろう『目標』が見えてくる。

色々考えて「目標」を決めてから始めてもいいし

とりあえず何も考えず何か「行動」にうつしてみてから始めてもいいし。

始めの一歩はどっちからでもいいと思う。

 

そもそも

「『目標』を先に設定しなければならない」っていう考えは

いつから僕らの脳に植え付けられたものなのだろう。

まあ仕事上などの社会に関わる『目標』ならば

他者への説明義務があるから『先に設定する』ということの意味はわかるけども

自分自身の事に関しては、「『目標』が先」ということに縛られる必要は無いように思う。


『目標』と『タスク』。

このフィードバックループ。

ここから本題。

この「フィードバックループ」って言うものは

人間の思考方法の純粋なカタチのように思う。

『継続は力なり』とよく言われるけれど

この「継続」は『フィードバックループ』のことだと思う。

なんでも続けてりゃいいってモノじゃない。時間は有限なのだから。

上記の話をもっと抽象的にすると

要は、

 

主観的な考え、意向 → 行動 → 客観的な結果 → 主観的な考え、意向 → 行動 → 客観的な結果 → ・・・・・

 

ということなのだと思う。

 

「客観的な結果」というのは、

たとえばタスクの記録。

今日はコレをこのくらいやった、というように記述して残しておく。

ダンスだったら何の練習をしたとかイベントに出るとかバトルに出るとか

勉強ならテストをうけるとか

普段アタマにある考えてることはこういう日記に残すとか気の許せる人に話してみるとか。

 

「視覚化」や第三者に提示してみるということがそれ。

そこから反省して(「主観的な考え、意向」をあげて)・・・・・という思考法(フィードバックループ)

 

最近そういう方法をとってます。

 

自分は、自分が思っているほど優秀ではないし

自分が思っているほどバカでもない。

 

地に足をつけて。

じゃないと地面を蹴って前には進めない。

 

今そう思って毎日を過ごしてます。

Voice,Letters,Sketch


「言葉」というものに最近の興味があって色々な文献を読んでみたのだけれど 
「言葉」は「文字」と「声」の2つに分類することができるということを知った。 


「文字」は視覚的な言葉で、「声」は聴覚的な言葉である。 
「文字」は物質(本やメモ)として残り、「声」は発した瞬間に儚く消える。 


「文字」はモノとして残り再度読み直して再考できるために 
物事(書いてある内容)を反復して深く考えたり世代を超えて伝達したりと「研究・探求」というものに適したツールであり、 
「声」は非物質(空気の振動)で刹那的な寿命の情報のため 
リアルタイム、体験的であり、その「声」を共有できる(話し合いをしている)複数人のグループの一体感を生むツールである。 



建築の設計をやっているとスケッチ(パース、ダイアグラムなど)をよく描く。 
それは、クライアントや敷地から要求される事柄と設計者のこだわり、作家性(作風)を統合した概念を、実際の建築の図面(形態)に落とし込む時のパイプ/翻訳(言葉から図式/形態へ)の役割をする。 


それは、頭の中の抽象的な概念(文字や声などの言葉)が具体的に視覚化される最初の段階の図形、と言えば良いのだろうか。 
(そこから法規や諸室の配置、寸法、素材、工法などいろいろ検討されていき、実際に立ち上がる建築物となる) 



英語の単語の1つである “see” は、「見える」と「分かる」という意味が同時に存在している。 
つまりこの単語には、「見えないことには分からないし、分からないことには見えない。」という考えがあるといえる。(『網膜に映ったことで「見える」』と『脳内にイメージが浮かぶ=「分かる」』の差異は “see” には無い)。 


だから、この文字、スケッチによる視覚化、俗にいう「見える化」は 
物事を「分かる」ということに有効な手段である。 


しかし、この「視覚化」には落とし穴がある。 
それは下記の心理学・行動経済学者 Daniel Kahneman(ダニエル・カーネマン)の言葉。 


—We’re blind to our blindness. 
We have very little idea of how little know. 
We’re not designed to know how little we know. 
[trying to judge the validity of our own judgments] is not worth doing. 
But when the stakes are high, 
my guess is asking for the advice of other people is better than criticizing yourself.— 

(日本語訳: 
我々は「盲目」ということに盲目である。 
我々はとても小さな知識の中のちっぽけな見解をもっている。 
我々は如何に自分たちが知っていることがちっぽけなものかを知ることができない。 
「我々独自の判断の妥当性を見定めようとすること」は決して悪いことではない。 
しかし、その判断を上回るような危険な事態が起こる時、 
私の推測では自問するよりも他の誰かに訪ねてみる方が得策だ。) 



人間は判断する対象をフレーミングをする。 
もしくは上記のように「視覚化」する。 
そうしないと物事を決められないからだ。 
(「言葉」というものはそういうときに用いるツールであることも前回書いた) 


そのフレーム(「視覚化」されたもの)の外にあるものに対して盲目になり 
その「盲目」に対しても盲目になる。 
(=「例外」が存在することを忘れてしまう、目に見えているモノが全てであると思い込んでしまう。) 


要は僕が以前書いた「Don’t go crazy」と似ていて、 
独りよがりな考えを上回る事態(=「想定外」)に遭遇する前に 
早期にフレームを大きくする「話し合い」に価値がある。 
(あと、この「盲目であることに盲目」の状態が “crazy” なのだろう。) 


ホントありきたりなことで目新しいことではないのだけどw 
「他者との会話・意見交換は重要だ。」ということだ。 



そう、だから 
話すこと、書くこと。そして(建築家にとって)描くこと。 
これら3つはとても大切なことなんだ。 


まあ僕は話下手だし 
なまけものの性格だからスケッチを描くのもサボリがちなんだけどw 
意識的に行動にしていかないとなぁ。 


と考えた2012年旧正月in上海です。 

(26,Jan,2012著)

By myself



英語で「1人で~する」という表現の時に用いられる”by myself” 
たとえば、”I’m living by myself.” は「私は一人暮らしをしている」となる。 

“by”は、「~によって(~される)」という意味をもっているから、 
この”by myself”は「自分によって自分が~される」という意味合いに僕は受け取っている。 

この「する自分」と「される自分」が同時に、 
1人の人間が2人に分けられたかのように 
存在していると捉える視点が面白いと思った。 



僕は昔から「自分は2人いる」と思うことが間々ある。 
(ドッペルゲンガーとかそういう話ではなくて) 

ふとした時に幽霊離脱のように 
「自分を観察している自分」が現れて 
しばらくしたら消える。 

「当事者としての自分」と、「それを俯瞰して見ている自分」 
という感じだろうか 
その2人が現れたら消えるということが繰り返し起こる。 


また 
自己性格診断テストなどの結果で 
僕は「内向/外向」の項目が半々になって 
結果が2パターン出てくることがよくあるし、(過去に3回経験した) 
大勢で騒いでいるときと1人で黙々と何かに没頭しているときの 
ギャップが大きいから 
人から「二重人格みたいだ」とも言われることもある。 

自他ともに(認識の違いがあれ)「僕」と「また別の僕」がいると認識することが、たまにあるようだ。 





どちらが自分なのか知らないし 
どちらも自分だしどちらとも違うのかもしれないし 
別れているときと別れていない時はなにがちがうのか。 
よくわからない。 


そして、この「自分は2人いる」という話を 
いま書いている自分は別々に別れてるの? 
なんなの? 


という問題にぶつかった。 



それで気づいたこと。 
『そもそも始めから自分は1つで、 
知らず知らずに自分で自分自身を2人(もしくはそれ以上)に分けてしまっただけではないか。』 
ということ。 

何故そういうことが起きるのか。 


人間は言葉を用いて、世の中の事象を分けて(分別して)把握するようになった。 
だから言葉を知るほど(ボキャブラリーが増えるほど)、 
「あのときは~の自分、このときは~の自分」と 
言葉を自分自身に与え、自分自身を(知ってか知らずか)分け隔てていく。 

そして生きていくうちに、対になる言葉同士(対義語)を与えられた自分たちが出てくる。 
「理性的」と「本能的」、「正直な」と「嘘つきな」、「表」と「裏」、「天使」と「悪魔」、「本当」と「偽」、「好きな」と「嫌いな」などなど。 


でも、 
「頭のいい」人でも簡単な間違いをすることはあるし 
「明るい」人でも暗く落ち込むことはあるし 
「真面目な」人でもアホやって騒ぐことはあるし 
「気怠そうな」人でもなにかに真剣に取り組むことはあるし 
「静かな」人でもおしゃべりになることはあるし 
「自己チューな」人でも誰か他人のために献身的になることはあるし 
「ちゃらんぽらんな」人でもじっくり物事を考えることはある。 



だから 
「これが『本当』の自分」だとか 
「どちらが『自分』なのだろうか」とか 
「自分は~な人間なのに、周りは分かってくれない」とか 
「みんなホントの自分を理解してくれない」とかの問題/悩みは 
上記の「言葉による分け隔て」から発生したものであり、 
結局これらは「『言葉』を使用するが故のワナ」である。ということ。 


(おそらく上記の類いの問題には答えは出せない。仮にどちらかの「自分」を選び取ったとしたら、もう片方の「自分」を徹底的に排除しようとする苦労に見舞われる。まあ、その苦労を逆手に取って「有言実行」というストイックな心構えや「自己実現」へ向かうことが可能にもなるけれども。) 



もちろん、「言葉」は重要なコミュニケーションツールであり、自身の思考ツールであり、記憶・記録に欠くことはできない。 
物事に何か言葉を与えてしまえば、思考しやすくなって脳がラクになるし問題の解決に近づけることにもなると思う。 

ただ逆に、言葉を与えてしまったが故に、その言葉の意味されるもの(シニフィエ)や 
その言葉のキレイな(かっこいい)響きに囚われて 
流動的な〈世界〉から目を離して思考停止してしまうリスクもある。 



要は、「何事も取り扱い方が大切だ。」ってこと 

「言葉」は、流動的な事象や変化を切りとって停止させ保存しておく性質がある。 

これを把握したほうがいいと思った。 
それが「言葉の取り扱い方」。 




となると、 
この「言葉」を用いずに物事を把握できることは可能なのか。 

『言葉』を捨てる方法、『言葉』に支配されずコントロールする術はあるのだろうか。 

〈世界〉を「言葉」で切り分けずに、まるっとわかることはできないのか。 

「ありのままを受け入れる」「Let it be」というのは 
このような術がないと実現できないのではないだろうか。 

みたく、 
今度は「分かる」と「悟る」のそれぞれの方法について考えてみたくなる。 


自分でまたよくわからなくなってきて 
まだオチが見つかってないのだけどw 
とりあえず『「言葉」を使うこと』に対するここ最近の興味のメモ。 

(27.Dec.2011著)

Globalism


「グローバリズム」は本当に地球を『平和』に、平均化、均質化したのだろうか。 


日本語には英語(他国言語)にない繊細な感性があると思うし
実際、そういった感性は人生を豊かにし得ると思うけど 
グローバリズム社会のシステムにおいて 
そういうことはまだ別の話だと思う。 



「グローバリズムの時代において英語は必須」という認識。 



これって母国語が英語の人間にかなり有利じゃないか? 


日本に生まれて日本語ネイティブの僕は 
時代の主流である「グローバル」の舞台に上がるためには 
英語が話せなければならない。 
(いや、もちろんこの「格差」に対してデモを起こそうとか 
disって自慰しようって意図はないし、それを知った上でこっちに来た訳だし。) 



僕の会社には 
アメリカからのインターン生がよく来る。 

実際、僕は上海で仕事するためには英語が欠かせないから 
日本にいた時でも今でも勉強して来てるのに 
元々英語が話せるからって簡単に(僕の英語の学習に費やした時間と労力を無くして) 
来ることができることに 

「この野郎…………………… I’m fine. How are you?」 

ってなるわけですよ。 



だから、「グローバリズムが世界を平等に、均質的にしている」とか思ってるのは 
英語圏の人間だけじゃないのかな、と思う訳です。 


上海でもアメリカンなハンバーガー食べられるし

(もちろん日本的な寿司も食べられるけどw) 
西洋的なしゃれおつなバーもあるし 
英語はどの国でも教育されているから、なんとか意思疎通はできなくもないので 
中国語(英語以外の言語)を学ぶ意識はさほどない(ローカルのお店以外なら大概通じるし)。 
英語圏の人間にとって(もちろん『海外にいる』という意識/緊張感はあるにしろ) 
生活はしやすいのではないのかと思う。 



だから 
英語を勉強して海外でも働けるようになるんだ!という自分と 
英語圏の人間との意識というかなんというかわからないけど 
なんだかそこまで来るハードルの数、高さに「格差」を感じる。 
(僕らの語学習得に要する労力と時間を、彼らは他のことに自由に使える訳だし) 



だから 
「簡単に英語しゃべりやがって(震える握りこぶし)……………Yes. Good. Let’s go for coffee!(爽やかスマイル)」 

となるわけです。 


もちろん、英語できないとなんかナメられるしバカにされるけど 
(しゃべれない自分に対してもイライラするし) 
それを嘆いて落ち込んでいる暇と体力あるなら 
勉強してさっさと修得しろって話。 



また、話変わって 
グローバリズムによる経済的格差も最近の問題になっているようですね。 


僕が勉強した限りでは、 
現在の日本が直面している「デフレ」の問題は貨幣的なものではない。 
だから今の世界的な不況は財政・金融政策は効かない。 
(日本円を発行すれば解決するという問題ではない。) 


問題の本質は、新興国との(製造業)の競争の激化であり、 
その新興国との価格争いによる 
先進国の製造業の賃金の低下、 
製造からサービス業への人材移動(転職)と 
これに加えてグローバリズムによる世界市場の統合の中での 
先進国の価格体系が新興国のそれに引き寄せられる(類似してくる)こと=「バラッサ・サミュエルソン効果」によるサービス業の実質賃金の低下。 


このしわ寄せは単なる「賃下げ(減給)」としてではなく 
「正社員から契約社員への代替」「新卒採用削減」として現れる。 
つまり、中高年ではなく若年層の雇用や賃金に影響が出てくる。(=「就職氷河期」) 


だから仮に為替介入しても一時的に「デフレ」は解消されるかもしれないが 
抜本的な解決にはならない。実は「雇用・労働制度」に問題があるとされている。 
(最近は、「最低賃金」に関する議論もあるようだし、それもまた「格差」の問題を引き起こす。) 



グローバリズムにより経済問題もまた複雑化してきている。 
(経済に関しては詳細をもっと勉強する必要があると思うけど、とりあえず記述しておきます。) 




グローバリズムによって 
世界の国々は確かに「つながった」。 
でもそれは「平和」や「安心」とはまた違う。 



あと、ネットの普及で 
どの国でも誰とでも連絡が取れるようになったけど 
地球上に生きる限り「時差」というものは無くせない。 


会社にいるアメリカ人は 
アメリカにいる友人とリアルタイムで連絡を取るのに 
時差15時間のため 
上海では深夜、アメリカでは朝 
という時間帯でしか連絡が取り合えない。 


だから(仕事でもプライベートでも) 
スケジュール管理は 
社会に属する限り必要なものだと思うけど 
その管理に「時差」というパラメータが入ってくることにより複雑化する。 


「ノマド」的なライフスタイルも話題になってるけど 
あちこち国を移動しまくってたら 
仕事の納期や会議と、自身の生活リズムとがぐちゃぐちゃになって大変なんじゃないかな、とか思う。 
体調管理も社会人には重要ですからねw 
(とはいえ、実際「ノマド」は僕の眼には魅力的に映っているのだけどw) 



要は、「グローバリズム」は僕らに「平等」や「平和」をもたらしたのではなくて 
ただ「格差との闘い方」を変えただけだ。ということ。 


僕の具体的な「闘い方」はナイショ。 

(29.Oct.2011著)

Link


関係のない分野、自分の専門とは異なる分野を勉強することは 
一見、ムダなようで何も意味のないことのように思える。 


でも、養老猛さんと茂木健一郎さんの対談本『スルメを見てイカがわかるか』を 
最近読み返してみたら 
「関係の無さそうなことでも、結局それらの情報を処理する脳みそは1つであるから 
なんかしらの関係/影響があるはず」のようなことが書いてあって 
「確かにそうかもな」と思った訳です。 
(コレに関する研究は現在行われていないために真意は定かではないけども) 



建築家・原広司さん(僕の恩師の恩師。面識はないですw)も 
知識の幅が広く、哲学やら幾何学やらと「建築学」の枠とは違う学問にも精通していて 
それらを絡めながら自身の建築論を展開していくところなんかに憧れを持ちます。 



あと鳥などの動物の「群れ」がつくる「群造体・群動体」にも 
修士の時ぐらいから興味を持ち始めました。 
要は「それぞれの個体が自律していながらも、それぞれの間に不可視な関係/ルールが存在していて、それらつくり出す全体/群れの在り方」っていうのかなw 



IT/SNSで作られていく人脈や情報伝達、 
グローバル経済や村上春樹の『1Q84』の「リトルピープル」、 
建築分野でいうと「アルゴリズミック・アーキテクチャー/Algorithmic Architecture」とかで 
上記の「イメージ」が共有されているように感じる。 



なにかそういう「イメージ」に魅力を感じているし 
そういった自分の脳内にLinkが出来てくる状態、 
そのLinkが広がっていく感覚を求めて 
闇雲に本を読んでいるのかもしれないし 
人の話に耳を傾けているのかもしれない。 


そしていま、自分のなかに 
無数のLinkでつながってできる世界観に最大の興味があるように思う。 

んで、いつ/どんな世界観になるのかは、わかりません。笑 

(2.Oct.2011著)

Input & Output



茂木健一郎さんの「忘れる」ということについての連続ツイートを読みました。 
以下、転載。(改行だけ僕が勝手にやってますが、内容はいじってないです。) 

———————————————————————— 
わう(1)忘れることで、人生はうまくいく。 
勉強することも、体験を蓄積することも、詰め込むことも大切だけれども、同時に大切なのは、忘れてしまうこと。 
実際、人生がうまく行かないことの大半は、忘れられないことの中に理由があるんじゃないかな。 

わう(2)若さとは、自分が何も持ってやしないということの自覚である。 
だから、ギラギラする。年を重ねるにつれて、いろいろ持ってしまう。溜まってしまう。 
だから、曇ってくる。自分が何を持っていようが、蓄積していようが、そんなことは忘れてしまいな。 
そうすれば太陽になる。 

わう(3)忘れられないと、昨日までにとらわれる。子どもは忘れるのがうまい。 
泣いたからすがもうわらった。忘れることは、最高のアンチエイジングである。 
どんなに苦労しても、いろいろあっても、はて、そんなことありましたかねと言えるならば、その人はいつまでも若い。 

わう(4)日本人が英語をうまく喋れないのは、日本語を忘れることができないからだ。 
だから英文和訳をする。和文英訳をする。 
母語である日本語は確かに大切なことばだけれども、自分が日本語を喋れるということを忘れちまいな。そうすれば、何も喋れないことのギラギラが、力になる。 

わう(5)そもそも、私たちの意識は、身について自動化したことは忘れるとベルクソンも言っている。忘れるということは、つまりは自分のものになったということ。 
そこには注意を向けなくていい。 
まだ自分のものになっていないものにこそ、貴重な意識の資源を向けるべきである。 

わう(6)緊張するのは、才能の証しである。 
自分が何をしなければいけないかを、自覚している。 
忘れられないから、緊張する。 
うまくやろう、もしダメだったらどうしよう、そんな配慮は、ぜんぶ忘れてしまえ。そうすれば、うまくいく。フローの黄金に持ち込むことができる。 

わう(7)悩みのほとんどは、忘れることで解決する。歩くことは効果的である。 
酒井雄哉さん(『幸せはすべて脳の中にある (朝日新書)』)も、「歩行禅」とおっしゃっている。 
歩くことであたまをからっぽにすれば、それで若返る。 
前向きに生きるエネルギーが生まれてくる。 

わう(8)『アンの青春』(Anne of Avonlea)だったかな。「たくさんのことを忘れた猫」という言葉が出てきた。 
たくさんのことを覚えている人もいいけれども、たくさんのことを忘れた人もいい。 
きれいさっぱり忘れたことがいいこともある。たとえば、学歴とかね。 

わう(9)アウェーにいったら、ホームのことをいったん忘れてしまう。 
それが、旅することの喜びだったはずなのに。生きる楽しみだったのに。覚えなけりゃいいんだよ。 
とらわれないこと。重力の魔に逆らうということは、つまり、忘れる練習をするということ。 

————————————————————————— 


僕は、 
「忘れる」という行為は 
「覚える」という行為が前提にあって成り立つものだと思う。 



クリストファー・ノーラン監督の映画「メメント」(2000年制作)は 
強盗に妻を殺されたショックで 
「新しい記憶が10分しか残らない」という記憶障害になった主人公が 
その犯人を追う復讐劇。 
この主人公は、その新しい記憶が消える前にポラロイドカメラやメモ、タトゥーを掘るなどして 
なんとか記憶を留めようとしながら犯人を追い続ける。 
(ストーリーの進行も、通常の時間軸と逆行するようになっていて、 
なかなか挑戦的で僕は結構好きな映画です) 


「忘れる」ということがあるから 
「思い出す」ということが成立して 
そのため、記念写真や日記、メモに存在価値が出てくる。 


上海に来てから、意識的に日記を書こうと思っていて 
それは「忘れない」ために記録を残そうという意図があった。 

でも実際は、書いた後にその内容をけっこう「忘れる」笑 
「何書いたっけかなぁ…」みたいな笑 
(それでまた読み返したりするんだけどw) 


だからこういう日記みたいに言葉にするのは(他の表現方法でもいいのだと思うけど) 
アタマの外に出す=Output=「忘れる」のに実は有効なように思う。 


1. 「Sence」で情報を捕らえる=Input 
2. それを“「忘れる」=Output”のために“「覚える」=アタマの中に留める” 
3. Outputする=アタマの外に出す 
4. そのOutputを後々眺めて「忘れる」が出来ているか確認する=「思い出す」 
(思い出したくなければ、それを捨ててしまえば良い訳でw) 

って流れがあるのかなぁと思った。 



ということでこの『「忘れる」ということ』を 
「忘れる」ための日記でした。 


(26.Jul.2011著)

Sence

目をつぶって鼻をつまんで食べ物を食べると 
何を食べてるかよくわからない。 

前にフジテレビの「めちゃイケ」で 
そんなコーナーがあったと思う。 
2人組で何を食べたか答えを合わせるやつ。(今もやってるのかな?) 

その「めちゃイケ」のコーナーでどのように正解を探るかというと 
「舌触り」や噛んだときの「堅さ」、 
「刺激(「辛さ」は粘膜への刺激であって、辛さを感じる「味覚」は無い)」、 
噛んだ時の「音」を頼りにする。 


五感のうちに「味覚」という味を感じ取る感覚器は 
思っている以上に鈍いことがわかるし、 
こうやって食べると「美味しい」とは感じないはず。 

つまり「味わう」という行為は 
味覚だけでなく 
それ以外の五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚)も合わせて初めて成立する。 




また先日、LAにいるボスから、 
紙ナプキンに描かれたプロジェクトのアイデアスケッチの写真が 
メールと共に送られてきた。 
一瞬のひらめきが瞬時に国を超えて共有されるスピード感に 
驚嘆と同時にかっこ良さを感じた。 


ITの進化で、情報の行き交い、受信と発信はとてつもなく速くなった。 
「情弱」という「情報格差」を表す言葉も一般的になってきた。 
まだまだITには可能性があるし、これからも僕らの生活に対して大きな影響力を持ってくると思う。 


でもその反面、『「情弱」にならなければ安心』といった「知ったかぶり」に 
自覚無く陥る可能性も出てきたと思う。 
そもそも「情報」という言葉は「『五感』が感知した事象」だと思うのだけど、 
(今現在は)ITによって視覚と聴覚だけ切りとられている様に思う。 
(まあ、人間の五感のうちその2つにプライオリティがあるのはわかるけど) 




「多角的に物事を見る」「無限に想像を広げる」とかいう言葉、 
「リアル」を集約して「イメージ」を構成する「Inspiration」は 
こういった感覚から得られた「情報」がないと 
実現できない様に思う。 


(「情弱」は端においといて)「情強」のなかで他者と差別化を図るには 
「経験」すること、その目で、鼻で、耳で、舌で、肌で感じることが必要になると信じたい。 
(単純に「ITを捨てろ」なんて言う気は毛頭ない。) 



僕は上海に来て初めて、 
街に「匂い」があることを知った。 

「生きよう」「生活を豊かにしよう」という人のガメツさ、必死さを肌で感じた。 

良くも悪くも素直な言動をしている人々を目にした。 

ラテン系の人間が醸し出す、女性を口説くときの空気感を横目で感じた。 

逃げ場も無く闘う「孤独感」を知った。だからこそ気にかけてくれる人の「温かさ」を知った。 

日本ではどうでも良かったことが、実は大切なことだと知ったし、 
そういう「大切かどうか」なんてことは、自分のいる環境によってめまぐるしく変わるというある種の「儚さ」のようなものも身をもって感じた。 

上記のようなことを感じとる感覚を自分が持っていることも知った。 

(「五感」から「心情」的なものまでちょっと話が広がってしまいましたがw) 
これらは実際に「経験」しないと得られない「情報」だったと思う。 



以下は、修論のときのプロローグとして書いたもの。 

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『都市的状況』 

遠くに聞こえる鳥の声 
忙しく奔る自動車の音 
地面に光と影のモザイクを描く太陽 
季節を知らせる草花 
寡黙に自己アピールしている看板 
すれ違っていく見知らぬ人 
思わず見とれる美人 
どこからか流れている聞き覚えのある音楽 
セットした髪型を崩していく風 
大きな声でビラを配り勧誘している客呼びの店員 
テラスで日向ぼっこしているカフェの椅子 
いつのまにか浮かんでいる丸い月 
暗闇と一緒にやって来る静けさ 

こういった日常の小さな出来事の集積を経験する場を 
僕は「都市的状況」と言いたい。 

そしてこれら小さな出来事のきっかけの人やモノは 
「都市的状況」をつくるために存在している訳ではない。 

それぞれがそれぞれに存在しているからこそ 
「都市的状況」はある。 

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(今読むと、自分の関心事は押さえているけど,「浅いなぁ」って思うね笑) 



視覚と聴覚が瞬時に共有されるこの時代において 
それ以外の感覚が鈍らない様に気をつけたいと思う。 
街を歩くだけでも、たくさんの「情報」は得られるのだから。 



この「情報」—「リアル(身体感覚で感じ取るもの)」—が『Loop』を廻すのに欠かせない。 
「情報」のために、その「感覚」をもって「行動」して「経験」することが重要なんだ。 


ということで 
勇気をもって未開の地を 
この身体で行くことを心がけたいと思います。

(22.Jul.2011.著)