HOTAPONG HOTABLOG

辿り着く先の知らない思考の途中経過と、その道中で出会った様々なもの。

My inspiration source and thinking about architecture, design, life, myself...........

30th Birthday

 20代最後の日9月1日は、安藤忠雄さん設計の上海保利大劇院を見に行きました。

高校時代に進路に迷っているときに、たまたま見た安藤忠雄さんのコラム記事を見たのが建築に魅かれたきっかけで、その後大学の建築学科に進学し大学院まで行き、はたまた上海まで来てしまいました笑。

 明快な幾何学形態のコンクリートで作られたマッスの重さ、ボイドの抜け感と都市空間・ランドスケープとのつながりなどは、やっぱり安藤さんらしくて勇気もらえました。

 建築の強みであり弱点でもあるのは、やはり実際に建てて訪れて体験しないと価値が明確にわからないというところ。Webに比べたら圧倒的に遅いけれど、全身の五感をもって体験することという点においてはITに勝っていると思う。

ここのところ、仕事ばかりで建築を見に行くというようなことをしてなかったので良かった。街に出ないとね。

 また先日、新国立競技場コンペを勝ちとったザハ・ハディド建築設計事務所が、設計意図をまとめた動画を配信して、「機能を無視したデザイン」「キールアーチがコスト高騰の原因」「建築家の自己満足なデザイン」などの批判を見事に叩き潰した。

 プロとして当然解決してある問題なのに、そんなことも考慮せずデザインしたというような誤解と安易な批判が大きくなり炎上した結果、白紙にされてしまったのはとても残念だった。

そして、あんなに知識・エネルギーを費やした建築が白紙に戻されてしまった理由として、世間一般の情報リテラシーの低下(情報の表面しか理解できない)があると思う。

 例えるなら、母乳、離乳食、普通の食事と消化器官が発達していくのに対し、流動食しか食べられない消化器官になってしまっているのに、それに気づけないでいるような。

 今の行動・気持ちを短文で発信し、また他人のそれを読む。というのが一般的になり、長文・それこそ本を読まなくなったことに起因しているとは思う。

 やっぱり読書の利点は、長文をじっくり消化する能力を身につけられることなのかもと思う。スマホだと長文読むの疲れるし、忙しいからスキマ時間の情報収集になってしまうし。

また、コンペ自体もとてもクローズドなものだったから、あらぬ疑惑をもたれても仕方ないとも思う。「審査結果はこれです。これを建てます。2500億円です。」と言われたら、それは オイッ!! ってなるよ笑

そういう今の時代だからこそ、

言葉を尽くして説明すること。難解なことは時間をかけてでも消化すること。

短文が圧倒的なスピードで消費されていく時代にそういったことに意味が出てくるのだと思う。

そしてこのような時代に、リアルに体験することに価値のある建築を続ける人間としては、「書を捨てよ、街に出よう」では、何も知らずに街に出ても何も吸収できないから、「書を読み終わってから、街に出よう」。

 でもこれだと時代の変化のスピードについていけないから、行きつく先は「書を読みながら、街に出よう」となるのかな笑。

二宮金次郎スタイル笑。

最近はkindleとか大量の本を持ち運べる便利なモノあるし笑

もっと動いていかないとなぁと思いながら、三十路スタートしたいと思います。

さっそく明日からは北京へ行ってきます。(仕事ですが笑)

皆様、30歳三十路の三澤穂高もどうぞよろしくお願いいたします。

(2015.9.3)

Personal Space

一年前くらいから中田ヤスタカがマイブーム。

彼の音楽が好きなのは当たり前として、下記のインタビューをみて彼の創作哲学に共感した。

https://www.youtube.com/watch?v=5WMyjU5RweU

https://www.youtube.com/watch?v=EaA_C4s8XJo

特に気になるポイントは

・必要な機材を好きな時に好きなだけ使える環境。

レンタルなどの限られた時間があると、その時に創作がうまく行かなかった時に「自分はダメだ」という劣等感を感じてしまう。「この時しか使えないのだから、この時に集中して成果を出さないとダメだ」と自分を追い込む。そこでうまく成果が得られ続ければいいが、ダメだった時にまた劣等感がうまれる。

如何にムダな劣等感を持たずにいられるか。(そもそも創作以外の葛藤は減らすべきだ。)


・なるべく一人で全部やる。

周囲の評価、フィードバックを他人に責任転嫁せずに受け入れる。それがまた新しい創作に反映される。ストイックな姿勢だと思う。


・自分が聴きたい音楽をつくる。

自分の好き嫌い、創作する欲求、衝動に愚直に従う。


以上の三点は納得するところ。

これらの要点をまとめてあるのが以下のChangeMakers2012での記事。

http://special.nikkeibp.co.jp/as/201201/changemakers2012/changemaker03.html


「つくりたいときにつくりたいものをつくれる環境を、つくる。」

彼には、創作に集中するために所有しているスタジオがあり、自分の好き嫌いにこだわるためにcapsuleというユニットがあり、創造力・アイデアの拡張・ブレイクスルーのためにプロデューサー業がある。=創作と深化と発表が一体となった「環境」がある。


僕にとっては学生時代の研究室がこういった「環境」であったと思う。

好きなときに好きな本を読めて好きに絵なり模型なりをつくれていたし、それらを教授や同期・先輩後輩、はたまたコンペなどで発表できていた。

しかし、卒業して社会人となった今はそういった「環境」を僕自身で獲得しなければならない。

僕はいま「環境」を求めていたんだと、中田ヤスタカ氏の一言で気づいた。

彼は長年、この「環境」を維持し続けたからこそ天才になりえたのだろう。

アメリカのApple社でも、スティーブ・ジョブズはエンジニアであった親友ウォズニアックの「環境」を侵害しないように細心の注意を払っていたと聞く。


単純作業のマックジョブは機械化が進み、人間にはクリエイティビティが求められるこれからの時代には、この「環境」の獲得がとても重要になってくるだろう。

 
「世間で頭角をあらわす人物は、自分の望む環境を自ら捜し求める人物であり、もしそれが見つからない時は自分で創り出す人物である。」

ジョージ・バーナード・ジョー (劇作家、1856-1950)


僕にとって今年は二十代最後で三十路になる年。どうも仕事に追われる日々になりがちだが、この「環境」を確保するための日々へとかえていきたいと思う。


もっとスキルを身につけたいし、もっと知識を深めたい。

今後自分がどんなアイデアでどんなデザインをするのかを自分自身が楽しんでいる人間になりたい。

そうであることを求められる人間でありたい。

そのためには、何をすればいいのだろう。

何を学べばいいのだろう。

何処にいればいいのだろう。

誰と一緒にいればいいのだろう。


考えるだけでなく、行動していかなければいけない。

(2015.2.18)

Create & Critic

創作する自分と批評する自分。
創作力と批評力。

最近の悩みというかモヤモヤしてたことがあった。
その理由がなんとなくわかったような気がする。
そのきっかけは松岡宏行さんという作家さんのツイート。

(以下引用)

—ダメな人間というか、誰しもダメな時はあるものだが、自分のことばかり考えて、自分はダメだと自分を責めている。人間、調子のいいときは、仕事や対象のことを考えるものだ。自分のことを考えるのをやめて、考えをやるべき対象「ものごと」に集中することが、ウツを抜け出す道だと思う。

小説家になりたい人が、なぜ小説を書かないのかと言えば、もうひとつ「処女作で大傑作を書きたい」気持ちがあるからだ。ところが今は大傑作を書く力がない。それは、批評眼だけが育っていて、創作力が育ってないから、自分が実際に書く作品が自分の評価に耐えられない。これが悔しい。

「評価眼だけが育って、創作力がない」ことは誰にとっても普遍的な悩みで、何か始めると、評価する自分が実行する自分を批判していじめてしまう。批評能力の高い人は、たいがい実行力もなくまして創作能力はない。自分が自分を批判してしまって、最初の段階でつぶれてしまう。

批評能力、鑑賞眼が先に育ちすぎてしまうと、忘我の境地になること、夢中になって集中することを妨げる。批判能力が「つくる自分」「行動する自分」をつぶす。

しかし、なぜ対象のことを考えず、自分のことばかり考えてしまうのか。仕事が途切れているからではないか。ヒマなときは集中すべきものがなくなり、つい自分のことを考える。仕事に忙しいときこそ次の仕事はこうしようなどと、アイディアがでてくる。—
 
松岡宏行 _@higetch(Twitterから引用)


デザインする能力、モノを創作する能力は
一朝一夕には育たない。
そしてデザイン系のメディアは世の中に溢れているから
自然と目は肥えていく。批評能力、鑑賞眼が先に育ってしまう。

だから何かデザインを始めると、
その創作したモノ/「創作する自分」を「批評する自分」が批判しいじめてしまう。
デザインする始めの段階で「創作する自分」が冷めてしまい、集中することを妨げる。

最近なんだか、自分自身が創作行為に没頭、没入、無我夢中になることがない。
ということに気がついてなんかモヤモヤした気持ちになっていたのだが、
要は余裕が持てているのが原因ということだ。
と書くと聞こえはいいが笑
言い換えれば、サボってヒマしてるということだ。


だから、「批評する自分」が出てこないように
日々のスピードを高めることが大事なのかも。

とはいえ、もちろん「批評する自分」も大事で、
「創作する自分」と「批評する自分」の意見交換/やり取りで創作物がグレードアップしていくのだから、
この2つの「自分」を飼いならすこと、相互に監視しあうことがクリエイティブの秘訣なのかもしれない。


「自分の好きなことをすることと、自分の好き勝手にすることは違う。」


学生時代に建築家の先生にそう言われたことあったなぁ。。。(遠い目)

(2013.9.22.)

Third year


先日、上海に来て丸2年が経ち、3年目を迎えました。

そこで3年目の抱負。

目の前の仕事を、とりあえずある水準まで持っていけ、と。

「ある水準」っていうのは、「お金をもらうに値する」ということ。

会社で働く=利益を上げる

以前に「カッコいいデザインをしたい」って文章に書いていたけど

「(学校で習ういわゆる)作家」として建築をする事と

「仕事」として建築をする事は違うもので

(そもそも『作家としての建築』というものからこの世界から入ったからしょうがないだろ、という言い訳。)

そういう「意識」が、

「会社で働く=利益を上げる」という意識を見えなくしてたのかな。と今は思う。

とにかくそういう認識の違いを新年に先輩からの忠告で思い知らされた。

(仕事に関することも追々記述したいと思っている。)


またこの新年には、祖父が他界したので

急遽日本に帰国して葬儀に行った。


葬儀は祖父らしい穏やかな雰囲気のまま終えて

その時に葬儀館のスタッフの方に

「とても優しい和やかないいお葬式でしたね」と声をかけて頂けた。


葬儀に参列した経験があまりないのでよくわからなかったのだが

世の中には、金銭トラブルなんかで家族仲が悪かったりして

殺伐とした嫌な空気の中で行われる葬儀もあるようだ。


そう考えると祖父が生前に大きな心で優しくつくりあげた家族環境が

葬儀をとてもいいものに仕上げたのではないかとも思う。

これら、心に響いたことが

この2013年はじめ、上海2年目を終え3年目をむかえる時期にあった。


仕事のクオリティを上げて収入をあげるには勉強が欠かせなくて、

例えば、今の僕の環境だとやはり語学が重要になる。

その語学をあげるには語学学校行くなり留学するなり費用をかけて学ぶ必要がある。

(もちろん独学でもいいのだが、それで外国語を覚えるまでは相当大変だ。よほど気持ちが強くなければいけない。また実務設計についても当然学ばなければならないが、それは仕事を通して直接学んでいくとして)

仕事に還元できることを勉強する費用を持つには給料が上げるようにしなければいけないし

給料をあげるためには勉強をしなければならない。

さらに、気持ちをリフレッシュしたり

新しいインスピレーションを得たり

新しい人脈を広げたり

(今は独り身だけど)祖父のように家族と過ごしたりするプライベートも重要になる。

そのプライベートを充実させるにはお金と時間が必要で、

これらを獲得するには勉強して高めの給料で早く仕事を終わらせなければいけない。

そう、仕事と勉強とプライベートのループだ

以前、テレビで作家の辻仁成の密着取材番組をみた。

彼は家族とフランスに移り住み

街や人々からインスピレーションや知識を得て

作家として本を書いたり自身のロックバンドでライブをやっていたり

自身のメッセージを発信して生活している。

ツイッターをみても子供との生活の一コマをツイートしていて

仕事、勉強、プライベートの循環がスムーズに回ってる。

(3つにカテゴライズしたが、そんなにキッチリ分け切れるものではないのだろうけど)


仕事、勉強、プライベートの循環がうまく回ってる人は、

その人独特の世界観を持っていて、とても魅力に溢れているように僕は感じる。

そういうような人になれるように、近づけるようにしたい。


去年27歳になったときの抱負にすこし手を加えたこの文を

上海3年目の抱負としたいと思います。


(20.Apr.2013著)

27th

もうだいぶ前の話になってしまっていますが

9月に27歳の誕生日を迎えました。

お祝いしてくださいました皆様ありがとうございました。

ちょうどその時に日本に帰国していたので

旧友たちと顔を会わせながら酒を飲めたのはいい想い出になりました。



日本の滞在期間は飲みっぱなしで

上海に戻ってきてもまた飲み会とwww

自分を迎えてくれるところが国境・海をこえて2つある、という

いまの「環境」は確かに自分の人生を豊かにしていると感じています。




今の生活は裕福とは言えないけども

充実している「環境」に身を置くことができるのは大切なことなんだなと。

「人生を豊かにするのはワーク・ライフのバランス」と言われることもあるけれど

僕はいま「建築」を仕事としていて、その「建築」とは「人の生活に関わるもの」であるし

自身の生活のなかでも数多くの「建築」に関わる。

だから、建築の仕事(ワーク)と僕自身の生活(ライフ)はつながっていて

僕のワークの延長に僕のライフがあるし、僕のライフの延長に僕のワークがある。

(この2つが僕にとって全く同じもの、とまでは言わないけれども。)



そしてこのバランスを取る為に

仲間みんなと一緒にワイワイ騒ぐことと、

1人の時間・空間をしっかり保って勉強や休息することの2つは欠かせなくて、

これは実は学生時代から年齢・住む都市が変わっても続いていることで、

こういう変わらない「環境」に身を置き続けることが

自分自身、「三澤穂高」という「人間」を変えていくのではないかと思う。

(思う、というか淡い期待をしているw)



そういう期待に応えてくれる変化が垣間みれる27歳の1年になったらいいな、と思います。

aim, task, loop

二ヶ月以上日記書いてなかったので

近況報告も兼ねてつらつらと。

4月に上海2年目に突入して

5月のGWに久々の帰国。

その帰国ですっかり気が抜けたのか

5月病に似た虚脱感で

向上心をどこかに置いてきたかのような生活を

送ってしまっていた気がしてちょっと反省。

そんな毎日の仕事に追われるだけの何となく過ごしてしまう日々から抜け出すには

『目標』が必要になってくる。

そして大事なのはその抽象的な『目標』から

具体的な『タスク』を設定する事だと思う。

要は『目標』に辿り着く為の「行動、日課、課題」を決める事。

『目標』が決まれば『タスク』も自ずと導きだされる。

また、もし習慣化している『タスク』があれば辿り着けるであろう『目標』が見えてくる。

色々考えて「目標」を決めてから始めてもいいし

とりあえず何も考えず何か「行動」にうつしてみてから始めてもいいし。

始めの一歩はどっちからでもいいと思う。

そもそも

「『目標』を先に設定しなければならない」っていう考えは

いつから僕らの脳に植え付けられたものなのだろう。

まあ仕事上などの社会に関わる『目標』ならば

他者への説明義務があるから『先に設定する』ということの意味はわかるけども

自分自身の事に関しては、「『目標』が先」ということに縛られる必要は無いように思う。


『目標』と『タスク』。

このフィードバックループ。

ここから本題。

この「フィードバックループ」って言うものは

人間の思考方法の純粋なカタチのように思う。

『継続は力なり』とよく言われるけれど

この「継続」は『フィードバックループ』のことだと思う。

なんでも続けてりゃいいってモノじゃない。時間は有限なのだから。

上記の話をもっと抽象的にすると

要は、

主観的な考え、意向 → 行動 → 客観的な結果 → 主観的な考え、意向 → 行動 → 客観的な結果 → ・・・・・

ということなのだと思う。

「客観的な結果」というのは、

たとえばタスクの記録。

今日はコレをこのくらいやった、というように記述して残しておく。

ダンスだったら何の練習をしたとかイベントに出るとかバトルに出るとか

勉強ならテストをうけるとか

普段アタマにある考えてることはこういう日記に残すとか気の許せる人に話してみるとか。

「視覚化」や第三者に提示してみるということがそれ。

そこから反省して(「主観的な考え、意向」をあげて)・・・・・という思考法(フィードバックループ)

最近そういう方法をとってます。

自分は、自分が思っているほど優秀ではないし

自分が思っているほどバカでもない。

地に足をつけて。

じゃないと地面を蹴って前には進めない。

今そう思って毎日を過ごしてます。

Voice,Letters,Sketch


「言葉」というものに最近の興味があって色々な文献を読んでみたのだけれど 
「言葉」は「文字」と「声」の2つに分類することができるということを知った。 


「文字」は視覚的な言葉で、「声」は聴覚的な言葉である。 
「文字」は物質(本やメモ)として残り、「声」は発した瞬間に儚く消える。 


「文字」はモノとして残り再度読み直して再考できるために 
物事(書いてある内容)を反復して深く考えたり世代を超えて伝達したりと「研究・探求」というものに適したツールであり、 
「声」は非物質(空気の振動)で刹那的な寿命の情報のため 
リアルタイム、体験的であり、その「声」を共有できる(話し合いをしている)複数人のグループの一体感を生むツールである。 



建築の設計をやっているとスケッチ(パース、ダイアグラムなど)をよく描く。 
それは、クライアントや敷地から要求される事柄と設計者のこだわり、作家性(作風)を統合した概念を、実際の建築の図面(形態)に落とし込む時のパイプ/翻訳(言葉から図式/形態へ)の役割をする。 


それは、頭の中の抽象的な概念(文字や声などの言葉)が具体的に視覚化される最初の段階の図形、と言えば良いのだろうか。 
(そこから法規や諸室の配置、寸法、素材、工法などいろいろ検討されていき、実際に立ち上がる建築物となる) 



英語の単語の1つである “see” は、「見える」と「分かる」という意味が同時に存在している。 
つまりこの単語には、「見えないことには分からないし、分からないことには見えない。」という考えがあるといえる。(『網膜に映ったことで「見える」』と『脳内にイメージが浮かぶ=「分かる」』の差異は “see” には無い)。 


だから、この文字、スケッチによる視覚化、俗にいう「見える化」は 
物事を「分かる」ということに有効な手段である。 


しかし、この「視覚化」には落とし穴がある。 
それは下記の心理学・行動経済学者 Daniel Kahneman(ダニエル・カーネマン)の言葉。 


—We’re blind to our blindness. 
We have very little idea of how little know. 
We’re not designed to know how little we know. 
[trying to judge the validity of our own judgments] is not worth doing. 
But when the stakes are high, 
my guess is asking for the advice of other people is better than criticizing yourself.— 

(日本語訳: 
我々は「盲目」ということに盲目である。 
我々はとても小さな知識の中のちっぽけな見解をもっている。 
我々は如何に自分たちが知っていることがちっぽけなものかを知ることができない。 
「我々独自の判断の妥当性を見定めようとすること」は決して悪いことではない。 
しかし、その判断を上回るような危険な事態が起こる時、 
私の推測では自問するよりも他の誰かに訪ねてみる方が得策だ。) 



人間は判断する対象をフレーミングをする。 
もしくは上記のように「視覚化」する。 
そうしないと物事を決められないからだ。 
(「言葉」というものはそういうときに用いるツールであることも前回書いた) 


そのフレーム(「視覚化」されたもの)の外にあるものに対して盲目になり 
その「盲目」に対しても盲目になる。 
(=「例外」が存在することを忘れてしまう、目に見えているモノが全てであると思い込んでしまう。) 


要は僕が以前書いた「Don’t go crazy」と似ていて、 
独りよがりな考えを上回る事態(=「想定外」)に遭遇する前に 
早期にフレームを大きくする「話し合い」に価値がある。 
(あと、この「盲目であることに盲目」の状態が “crazy” なのだろう。) 


ホントありきたりなことで目新しいことではないのだけどw 
「他者との会話・意見交換は重要だ。」ということだ。 



そう、だから 
話すこと、書くこと。そして(建築家にとって)描くこと。 
これら3つはとても大切なことなんだ。 


まあ僕は話下手だし 
なまけものの性格だからスケッチを描くのもサボリがちなんだけどw 
意識的に行動にしていかないとなぁ。 


と考えた2012年旧正月in上海です。 

(26,Jan,2012著)

By myself



英語で「1人で~する」という表現の時に用いられる”by myself” 
たとえば、”I’m living by myself.” は「私は一人暮らしをしている」となる。 

“by”は、「~によって(~される)」という意味をもっているから、 
この”by myself”は「自分によって自分が~される」という意味合いに僕は受け取っている。 

この「する自分」と「される自分」が同時に、 
1人の人間が2人に分けられたかのように 
存在していると捉える視点が面白いと思った。 



僕は昔から「自分は2人いる」と思うことが間々ある。 
(ドッペルゲンガーとかそういう話ではなくて) 

ふとした時に幽霊離脱のように 
「自分を観察している自分」が現れて 
しばらくしたら消える。 

「当事者としての自分」と、「それを俯瞰して見ている自分」 
という感じだろうか 
その2人が現れたら消えるということが繰り返し起こる。 


また 
自己性格診断テストなどの結果で 
僕は「内向/外向」の項目が半々になって 
結果が2パターン出てくることがよくあるし、(過去に3回経験した) 
大勢で騒いでいるときと1人で黙々と何かに没頭しているときの 
ギャップが大きいから 
人から「二重人格みたいだ」とも言われることもある。 

自他ともに(認識の違いがあれ)「僕」と「また別の僕」がいると認識することが、たまにあるようだ。 





どちらが自分なのか知らないし 
どちらも自分だしどちらとも違うのかもしれないし 
別れているときと別れていない時はなにがちがうのか。 
よくわからない。 


そして、この「自分は2人いる」という話を 
いま書いている自分は別々に別れてるの? 
なんなの? 


という問題にぶつかった。 



それで気づいたこと。 
『そもそも始めから自分は1つで、 
知らず知らずに自分で自分自身を2人(もしくはそれ以上)に分けてしまっただけではないか。』 
ということ。 

何故そういうことが起きるのか。 


人間は言葉を用いて、世の中の事象を分けて(分別して)把握するようになった。 
だから言葉を知るほど(ボキャブラリーが増えるほど)、 
「あのときは~の自分、このときは~の自分」と 
言葉を自分自身に与え、自分自身を(知ってか知らずか)分け隔てていく。 

そして生きていくうちに、対になる言葉同士(対義語)を与えられた自分たちが出てくる。 
「理性的」と「本能的」、「正直な」と「嘘つきな」、「表」と「裏」、「天使」と「悪魔」、「本当」と「偽」、「好きな」と「嫌いな」などなど。 


でも、 
「頭のいい」人でも簡単な間違いをすることはあるし 
「明るい」人でも暗く落ち込むことはあるし 
「真面目な」人でもアホやって騒ぐことはあるし 
「気怠そうな」人でもなにかに真剣に取り組むことはあるし 
「静かな」人でもおしゃべりになることはあるし 
「自己チューな」人でも誰か他人のために献身的になることはあるし 
「ちゃらんぽらんな」人でもじっくり物事を考えることはある。 



だから 
「これが『本当』の自分」だとか 
「どちらが『自分』なのだろうか」とか 
「自分は~な人間なのに、周りは分かってくれない」とか 
「みんなホントの自分を理解してくれない」とかの問題/悩みは 
上記の「言葉による分け隔て」から発生したものであり、 
結局これらは「『言葉』を使用するが故のワナ」である。ということ。 


(おそらく上記の類いの問題には答えは出せない。仮にどちらかの「自分」を選び取ったとしたら、もう片方の「自分」を徹底的に排除しようとする苦労に見舞われる。まあ、その苦労を逆手に取って「有言実行」というストイックな心構えや「自己実現」へ向かうことが可能にもなるけれども。) 



もちろん、「言葉」は重要なコミュニケーションツールであり、自身の思考ツールであり、記憶・記録に欠くことはできない。 
物事に何か言葉を与えてしまえば、思考しやすくなって脳がラクになるし問題の解決に近づけることにもなると思う。 

ただ逆に、言葉を与えてしまったが故に、その言葉の意味されるもの(シニフィエ)や 
その言葉のキレイな(かっこいい)響きに囚われて 
流動的な〈世界〉から目を離して思考停止してしまうリスクもある。 



要は、「何事も取り扱い方が大切だ。」ってこと 

「言葉」は、流動的な事象や変化を切りとって停止させ保存しておく性質がある。 

これを把握したほうがいいと思った。 
それが「言葉の取り扱い方」。 




となると、 
この「言葉」を用いずに物事を把握できることは可能なのか。 

『言葉』を捨てる方法、『言葉』に支配されずコントロールする術はあるのだろうか。 

〈世界〉を「言葉」で切り分けずに、まるっとわかることはできないのか。 

「ありのままを受け入れる」「Let it be」というのは 
このような術がないと実現できないのではないだろうか。 

みたく、 
今度は「分かる」と「悟る」のそれぞれの方法について考えてみたくなる。 


自分でまたよくわからなくなってきて 
まだオチが見つかってないのだけどw 
とりあえず『「言葉」を使うこと』に対するここ最近の興味のメモ。 

(27.Dec.2011著)

Globalism


「グローバリズム」は本当に地球を『平和』に、平均化、均質化したのだろうか。 


日本語には英語(他国言語)にない繊細な感性があると思うし
実際、そういった感性は人生を豊かにし得ると思うけど 
グローバリズム社会のシステムにおいて 
そういうことはまだ別の話だと思う。 



「グローバリズムの時代において英語は必須」という認識。 



これって母国語が英語の人間にかなり有利じゃないか? 


日本に生まれて日本語ネイティブの僕は 
時代の主流である「グローバル」の舞台に上がるためには 
英語が話せなければならない。 
(いや、もちろんこの「格差」に対してデモを起こそうとか 
disって自慰しようって意図はないし、それを知った上でこっちに来た訳だし。) 



僕の会社には 
アメリカからのインターン生がよく来る。 

実際、僕は上海で仕事するためには英語が欠かせないから 
日本にいた時でも今でも勉強して来てるのに 
元々英語が話せるからって簡単に(僕の英語の学習に費やした時間と労力を無くして) 
来ることができることに 

「この野郎…………………… I’m fine. How are you?」 

ってなるわけですよ。 



だから、「グローバリズムが世界を平等に、均質的にしている」とか思ってるのは 
英語圏の人間だけじゃないのかな、と思う訳です。 


上海でもアメリカンなハンバーガー食べられるし

(もちろん日本的な寿司も食べられるけどw) 
西洋的なしゃれおつなバーもあるし 
英語はどの国でも教育されているから、なんとか意思疎通はできなくもないので 
中国語(英語以外の言語)を学ぶ意識はさほどない(ローカルのお店以外なら大概通じるし)。 
英語圏の人間にとって(もちろん『海外にいる』という意識/緊張感はあるにしろ) 
生活はしやすいのではないのかと思う。 



だから 
英語を勉強して海外でも働けるようになるんだ!という自分と 
英語圏の人間との意識というかなんというかわからないけど 
なんだかそこまで来るハードルの数、高さに「格差」を感じる。 
(僕らの語学習得に要する労力と時間を、彼らは他のことに自由に使える訳だし) 



だから 
「簡単に英語しゃべりやがって(震える握りこぶし)……………Yes. Good. Let’s go for coffee!(爽やかスマイル)」 

となるわけです。 


もちろん、英語できないとなんかナメられるしバカにされるけど 
(しゃべれない自分に対してもイライラするし) 
それを嘆いて落ち込んでいる暇と体力あるなら 
勉強してさっさと修得しろって話。 



また、話変わって 
グローバリズムによる経済的格差も最近の問題になっているようですね。 


僕が勉強した限りでは、 
現在の日本が直面している「デフレ」の問題は貨幣的なものではない。 
だから今の世界的な不況は財政・金融政策は効かない。 
(日本円を発行すれば解決するという問題ではない。) 


問題の本質は、新興国との(製造業)の競争の激化であり、 
その新興国との価格争いによる 
先進国の製造業の賃金の低下、 
製造からサービス業への人材移動(転職)と 
これに加えてグローバリズムによる世界市場の統合の中での 
先進国の価格体系が新興国のそれに引き寄せられる(類似してくる)こと=「バラッサ・サミュエルソン効果」によるサービス業の実質賃金の低下。 


このしわ寄せは単なる「賃下げ(減給)」としてではなく 
「正社員から契約社員への代替」「新卒採用削減」として現れる。 
つまり、中高年ではなく若年層の雇用や賃金に影響が出てくる。(=「就職氷河期」) 


だから仮に為替介入しても一時的に「デフレ」は解消されるかもしれないが 
抜本的な解決にはならない。実は「雇用・労働制度」に問題があるとされている。 
(最近は、「最低賃金」に関する議論もあるようだし、それもまた「格差」の問題を引き起こす。) 



グローバリズムにより経済問題もまた複雑化してきている。 
(経済に関しては詳細をもっと勉強する必要があると思うけど、とりあえず記述しておきます。) 




グローバリズムによって 
世界の国々は確かに「つながった」。 
でもそれは「平和」や「安心」とはまた違う。 



あと、ネットの普及で 
どの国でも誰とでも連絡が取れるようになったけど 
地球上に生きる限り「時差」というものは無くせない。 


会社にいるアメリカ人は 
アメリカにいる友人とリアルタイムで連絡を取るのに 
時差15時間のため 
上海では深夜、アメリカでは朝 
という時間帯でしか連絡が取り合えない。 


だから(仕事でもプライベートでも) 
スケジュール管理は 
社会に属する限り必要なものだと思うけど 
その管理に「時差」というパラメータが入ってくることにより複雑化する。 


「ノマド」的なライフスタイルも話題になってるけど 
あちこち国を移動しまくってたら 
仕事の納期や会議と、自身の生活リズムとがぐちゃぐちゃになって大変なんじゃないかな、とか思う。 
体調管理も社会人には重要ですからねw 
(とはいえ、実際「ノマド」は僕の眼には魅力的に映っているのだけどw) 



要は、「グローバリズム」は僕らに「平等」や「平和」をもたらしたのではなくて 
ただ「格差との闘い方」を変えただけだ。ということ。 


僕の具体的な「闘い方」はナイショ。 

(29.Oct.2011著)

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関係のない分野、自分の専門とは異なる分野を勉強することは 
一見、ムダなようで何も意味のないことのように思える。 


でも、養老猛さんと茂木健一郎さんの対談本『スルメを見てイカがわかるか』を 
最近読み返してみたら 
「関係の無さそうなことでも、結局それらの情報を処理する脳みそは1つであるから 
なんかしらの関係/影響があるはず」のようなことが書いてあって 
「確かにそうかもな」と思った訳です。 
(コレに関する研究は現在行われていないために真意は定かではないけども) 



建築家・原広司さん(僕の恩師の恩師。面識はないですw)も 
知識の幅が広く、哲学やら幾何学やらと「建築学」の枠とは違う学問にも精通していて 
それらを絡めながら自身の建築論を展開していくところなんかに憧れを持ちます。 



あと鳥などの動物の「群れ」がつくる「群造体・群動体」にも 
修士の時ぐらいから興味を持ち始めました。 
要は「それぞれの個体が自律していながらも、それぞれの間に不可視な関係/ルールが存在していて、それらつくり出す全体/群れの在り方」っていうのかなw 



IT/SNSで作られていく人脈や情報伝達、 
グローバル経済や村上春樹の『1Q84』の「リトルピープル」、 
建築分野でいうと「アルゴリズミック・アーキテクチャー/Algorithmic Architecture」とかで 
上記の「イメージ」が共有されているように感じる。 



なにかそういう「イメージ」に魅力を感じているし 
そういった自分の脳内にLinkが出来てくる状態、 
そのLinkが広がっていく感覚を求めて 
闇雲に本を読んでいるのかもしれないし 
人の話に耳を傾けているのかもしれない。 


そしていま、自分のなかに 
無数のLinkでつながってできる世界観に最大の興味があるように思う。 

んで、いつ/どんな世界観になるのかは、わかりません。笑 

(2.Oct.2011著)